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塵〓談

薩摩芋の事、日本には宝永元申年より、琉球芋薩摩より種来る、長崎にて専ら種たるよしなり、青木文蔵名敦書、号崑陽〈当時百五十俵、青木岳太郎祖父か曾祖父なるべし、〉蕃藷考と雲ふ書お著し、享保二十年乙卯二月十五日上書す、書中に薩摩よりも蕃藷種蔵の法お上書せし事お載たり、最初唐土より琉球へ渡り来り、琉球より薩摩へ渡りて、三十四五年程に相成よしに見へたり、同年三月、文蔵に植立候様被仰付、小石川養生所内へ甫おこしらへ造り、元文元辰年御止になり、同二巳年三月三日、養生所勤役の者へ芋割賦し、芋畑引払被仰付、其後諸国へ流布して人毎に食し、朝夕の助となれり、宝暦年間に至りては、上総下総銚子岩槻伊豆大島、其外諸所より多く作りて江戸へ運送す、銚子お上とし、大島より出るお島芋といふて絶品なり、近歳に至り大なる国益といふべし、