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成形図説
二十/五穀
唐芋(からいも)〈是専俗の通称なり◯中略〉此もの吾邦に入りしは、既に慶元、〈◯慶長元和〉の頃ほひ、呂宋等の諸蕃より、吾藩、〈◯鹿児島〉の唐港に〈即坊津〉互市せし時、齎し来し由いひ伝へぬ、当初吾藩の僧文之が著せる南浦文集、呂宋国に贈る書牘の中に、彼国の商船贈信交易せしことヾも詳に載たり、当時の番舶吾邦に入貢せしは、多く川辺郡坊津に幅湊せしかば、歌にも唐の湊とはいひける、是もの唐芋ともいふは、我俗海外の地おさして、なべて加良と呼びしが故ぞかし、大和本草、和漢三才図会等の書は、元禄中に撰しものなるに、甘藷は先年より薩摩長崎へ種ると記せる、是にて元禄よりもいと早く西偏にはうえ始けるお見るべし、且吾沖縄島には、儀間親雲上(ぎまばひきん)が西土へ渡りし時、福建より持帰て種広めしといふ、其後元禄十一年戊寅の歳、中山王より甘藷一籠お、藩の大夫種子島久基に贈りしかば、室老西村某に命じて、久基の采邑熊毛郡種子島石寺野といふ処に種そめしこと、其家乗に載たりき、〈◯註略〉又薩摩穎娃郡山川の郷児水(ちごがみづ)に、利衛門といふ者、宝永二年乙酉のとし、沖縄よりもち来りて植たてしとて、今も山川の者語り継つ、利衛門が事お徳とせるあり、此等の説どもおおもふに、此もの始呂宋国より直に持渡りしほどに、唐芋と呼名せしとしらる、若琉球より始致(いたさ)ましかば、琉球芋とこそいふなるべけれ、しかるお筑紫中国にては、本藩の船どもの琉球より登りつ、又は浪華へ往来する時、此種子お琉球の芋なりとて伝へ弘めしより、琉球芋の名お負せたるならし、和漢三才図会曰、甘藷(りうきういも)は琉球国多有之、薩州及肥州長崎亦多種之と載て、本外国より舶伝せしことはいはざる也、按に甘藷は、明の李時珍の綱目お著すの時までは、いまだ唐山にもなかりき、故に異物志草木状お引て、出交広、南方珠崖之不業耕者惟種、此等の説ありて、現に見たりとはいはず、本綱成て後十六年にして、明の万暦廿二年甲午のとし、閩人陳経倫なるもの、其父振竜嘗て呂宋国に商ひせしに、朱藷の多きお見て、陰買して持帰り、及び其種法お伝へ置しお、時の巡撫金学曾といひし者に献り、初て閩中に種広めて、大に歳荒お救ひしかば、民其利お徳として金薯と名け、蕃国より渡ればとて、蕃薯とも称せしなり、是本邦にしては後陽成天皇の文禄三年に当れり、其後百六十年余お経て、清国の乾隆廿年乙亥の頃、〈乾隆廿年は斯方宝暦五年なり〉経倫五世の孫陳世元、其男雲相次て、〓県膠青予等の州に種しより、漸く東析の地に転へ致しける、其始末は金薯伝習録に詳にせり、されば西土へ流伝せしは甚近し、