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昆陽漫録
番薯〈敦書〉民間に在りし時、番薯は〈甘藷とも雲ふ〉〓年第一の助ゆえ、諸書お考へ集めて一巻となす、享保十九年〈敦書〉に命じて、養生所の壖地に作り試みしむ、〈敦書〉元来近年関東島々困窮して、飢人在と聞くによりて思へば、罪人お島々へ流さるヽは、罪人の天年お終しめられん為なるに、却りて飢うれば上の御恵みに違ひ、甚だ不便なることゆえ番藷お考へ集めしなれば、関東島々へ渡し度と申上げければ、関東島々へ渡さる、〈敦書〉身に余り難有ことなり、其後島々にて作り習ひたるや否や、絶えて知らざりしに、宝暦六年、都人神津島へ漂泊しけるに、島人番薯お与へて食はしむ、漂泊人この島にいかヾして番藷ありと問ければ、島人答へて雲、享保年中上より番藷の種お渡し下されたれども、貯あしくして種くさりしに、其比薩州人島にありて番藷お作り、貯へ様お悉しく教へしにより、精お出だし作り習ひ、大さ大椀に入らざるほどに出来る、神津島は至りて小く、食物すくなく、飢人ありしが、番藷お作りてより、食物とぼしからずして、飢に及ぶことなく、人も次第に多くなるにより、上の御恵の難有あまり、小祠お立てヽ番藷お祀ると雲、これ今年夏間聞くところなり、誠に一人にても飢人お救ふは、広大のことにて、有徳廟の御仁政深く仰ぎ奉るべきなり、さて八丈島にては、番藷お少し作り、其外の島々は作らざるにや、いまだ聞かず、作り習はせ度きことなり、〈これ宝暦九年聞ところなり〉