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有徳院殿御実紀附録
十七
沙糖に次ては、甘藷おもつくらしめ玉はむとて、あつく沙汰し玉へり、これは享保十七年西国蝗災ありて、農民飢饉せし時、深見新兵衛有隣に、長崎の辺凶荒のさまども尋とはせられしに、新兵衛答申けるは、某が父新右衛門貞恒、長崎にすまいけるが、かの地はもと米三千石ばかりいだす地にして、市中になりはひするものは五百戸にこえたれば、土地の米おば十日あまりにして食尽すべし、諸国運漕の米とだゆる時は、たちまち飢に及ぶべきことなりとて、甘藷お植て食料とする事お教けれど、農民のならひ、手なれざるわざおいとひ、其頃はさのみ植もせざりしかど、享保六年彼地にいたりてみれば、はや次第に植まして、食用ともなせり、さればこたびの凶荒にも、おほくのたすけとなり侍るべし、これより先薩州にては、とくこれおつくり、農民日用の食となし侍れば、かしこに行かふ舟人等、かひもとめて江戸に来り、うりかふ事となりしに、いつしか痰の毒ありといひ出せしものありて、人々これおきらひしかば、ふたヽびうる者もなくなりにたり、されど毒ありといふはひが事にて、かへりて補益多く、薩州にては味噌にもつくり、または水にてさらし、葛にもかへ用ひ、浜辺などの五穀お生ぜざる炉地にもおほくつくり、よく繁茂するものなりとて、培法など書て奉れり、青木文蔵敦書も、甘藷考など書て進らす、そのころ長崎の鉄工平野良右衛門といへるもの、江戸に来りしが、彼培法に精しきよし、新兵衛より薦挙せしかば、文蔵良右衛門して、吹上の御庭にてつくらしめ玉ひしに、これも年おへて繁植しければ、それより近国の代官におほせて、温暖の地おえらびうえさせ玉ひしに、いくほどなく上総下総のあたり、これおつくるものおほくなりて、江戸にも常にもち来りて、これおひさぎ、のちは日用の食となりし事、ひとへに御仁慈の御心、天意にかなはせ玉ひしものなるべし、