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風俗文選
五/序
番椒序 野坡とうがらしの名お、南蛮がらしといへるは、かれが治世、南蛮にて久しかりしゆへにや、未詳、酸醤子、天覗き、空見、八(やつ)なりなどいへるは、おのがかたちお好める人々の、玩びて付たるなるべし、皆やさしからぬ名目は、女が生得のふつヽかなれば、天資自然の理、さら〳〵うらむべからず、かれが愛おうくるや、石台にのせられて、竹椽の端のかたにあるは、上々の仕合なり、ともすれば擂鉢のわれ、底ぬけ釣瓶に培れて、やねのはづれ、二階のつま、物ほしの日陰おたのめるなど、あやうく見え侍るお、朝貌のはかなきたぐひには、誰も〳〵おもはず、大かたはかづら髭つり髭の益雄にかしづかれて、貪乏樽の口おうつすみさかなとなり、不食無菜の時、不図取出され、おほくは奴僕豆腐の比、紅葉の色お見するお、栄花の最上とせり、かくはいへど、ある人北野詣の帰るさに、道の辺の小童に、こがね一両くれて、女が青々とひとつみのりしお、所望せし事ありといへば、いやしめらるべきにもあらず、しかじ今は其人々も此世おさりつれば、いよ〳〵愛おも頼むべからず、からき目も見すべからずと、小序おしかいふ、石台お終に根こぎや番椒