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烟草百首
烟草至て好る人旅行の時用る、五町烟草(○○○○)の取合は、野州馬頭山の最上の油脂の深きに、秩父薄辺の脂つよき葉と等分に合せ刻、道中は度々つき替ことお厭へば、右の烟草に火お点る時はきゆることなく、きせるに息おいれざれども、五町が間滅ざるお奇とす、前にもいへるごとく、秩父館大山田は、脂ふかしといへども、和らかき事余葉のおよぶ所にあらず、是お五町烟草といふ、又曰、館大山田(○○○○)、脂ふかきは至て夕風お嫌ふ、もし夕風あたる時は、きつく脂臭くなるもの也、遠国へおくるにも心得ざるときは、東都の名産もほいなく、余国の葉にも劣るべし、一け年の内に、諸国より江戸へ来る烟草の高、大概お左に記す、最江戸近在へ贈荷物聊出る有、又諸国より呑料の葉江戸へ入あり、これお差つぎて凡お見る、国分舞留下り物十四万八千斤余 上州秩父館百六十万斤余 水戸下野大山田二百十六万斤余 甲州其外諸国三十万斤余 水戸下野奥州切粉百六十五万斤余 信州切粉百五十万斤余都合七百三十五万八千斤余大概の積、人数百十余万人に割付て見る時は、一人に一け年六斤六分八厘九毛余、是お以て之お見る時は、百中喫ざる者、唯二三人といへるも宜なり、常州水戸領赤土年員は、寛文の初より烟草お植けるに、元禄の末は盛(さかんなり)し、其斤高左に記す、常州 畑千百五十八町七反二畝五歩〈畝二十五斤積〉百七十三万八千八十斤余、下野 畑三百十五町七反九畝二十八歩 四十七万三千六百八十斤余合て二百二十一万千七百六十斤余右は元禄十五午年、常州野州両国にて種する所也、其内近国及上方筋へも登すことなり、この頃は切粉にては出ず、全葉のみなり、〈当時より見る時は半にも足ず〉然処作方盛にして、米穀の妨ならんと、元禄十七〈◯七恐六誤〉未年より、半減の作方仰付らる、紀州勢州両国にて 畑八百五十二町八反四畝 百二十七万九千二百六十斤余摂州服部の地 畑二町九反二畝歩 四千三百八十斤余尾州 畑百五十三町八畝歩 二万三千七百斤余濃州 畑百二十三町八反歩 一万八千五百七十斤余江州 畑一町八反歩 二千七百斤余肥前基肄養父両郡の内 畑一町四反歩 二千百斤余右聊の地所たりとも、午年より半減の作方なり、その後諸国新田開発し、烟草お種することおびたヾし、当時に至りては、国々の葉算るに徨あらず、