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一話一言
十五
烟草の事世は末法に下り、人に一の大病付く、所以者何は、慶長元和の比より、烟草と雲妖草、異国より宣り、人年々に賞玩し用ること、日々に〓也、無徳にして失多といへども、風味の美に迷、此失お顧る人なし、聖人の世に此草出なば、五辛五戒の誡より堅かるべし、第一座席お穢し、火艱是より起といへども更不厭、好まざるものヽ気お破り、剰体義お不知、けぶりしたヽかに吹かけ、呑がらの灰お吹出し、菓子食物に入事おしらず、ひとへに己がすける心にまかするは、さりとはあさましき愚人と雲つべし、いかなる好物とても、二六昼夜用ることなし、此草に於ては、片時のひまなく是お用ゆ、人四五人も寄合ときは、きりふかき山中に居するが如く、飢たる者の食おむかへ、渇したる者の水お求むるに不異、甚見苦敷ありさま也、若き女児法師など、責て用ひやうのたしなみ、心付べきこと也、是より名香は名のみ残りて、悪臭世間に満々たり、著心お厭事は三道一致なれども、此草に於は、誰免とはなけれども、此失お不猶、禅律の師も甚是お著する所に、隠元来朝、是お忌ば、彼寺計は禁ずると見へたり、やさしくも心付られけり、隻物は見馴きヽなれしことは、誤事も人是おとがめず、此に痰淫の病有人、痰壺おさげて人の交おせば、誰か是に近付者あらん、然に灰吹と号、痰お吐事一人に限らず、数多の痰お吐ため、座中に是お置、其匂ひ已に糞土にことならずといへども、好所の迷に是お知ざる也、或時は堂社仏閣の霊場、談義講釈にも、半時一時お堪へず、火お覓、痰お吐、又は前後の人の衣類お焼穢すこと、歎ても余りあり、かヽる人の参詣は、悪業の種お蒔なるべし、是末法の出来病ならずや、辛事お蓼葉に習、臭事おかはやに忘るヽとは是なるべし、又人の喰穢したる箸は、いたく是お忌嫌といへども、きせるに於ては、いかなる癩病瘡毒の者の痰咽の付たるおも更に不厭、是お用て楽となすこと、あさましき迷也、業深止め難きものは、責て大分の無作法おたしなむべし、一第一痰お吐事一談義講釈の時不可用事一呑がらの灰お吹出時可心付事一食事の時、煙草出すべからず、猶呑べからず事、一風上にて人の面に煙お可恐事一きせる掃除、人前遠慮の事、一上下ともにきせるくはへ、ことわざ成べからざる事、一夭草飽までねぢ入、永呑殊にうへらせ、度々痰おはき、咄すべからざる事、此外悪事数多有といへども、右九〈◯九或八誤〉け条は極たる罪業也、総て威いかヽり、続ざまに飽まで呑風情、見苦こそあれ、願くは我子孫相続せば、此書お伝て堅く守り、かヽる悪草お手にだもとるべからず、悲哉、此草はやり初し時、其比の明君、末代の失お考思召、御法度堅仰出され、或時はたばこ作りたる者お籠舎せしめ、或時はたばこきせる、辻にさらし焼捨、商売人禁玉ふといへども、此草に一度ふれ、味に著したるものは、命お捨ることお更に不厭、御成敗にかなはず、切支丹よりも止がたく、依之そろ〳〵高人の中にも用玉ふ方出来る、故に今は是お嫌者あれば、却て希有の思おなせり、鼻有猿の笑お得が如の世とぞなりけれ、〈中略〉紀州笠寺の住僧、六十歳にして煙草の悪お知て止けりと、唐の遽伯玉は、五十にして四十九年の非お知り、今の住僧は、六十にして、五十九年の非お知といへり、其国の大守、おり〳〵彼寺へ御来臨とぞ、此守護も煙草あながちに嫌玉へり、彼御守殿へは、常に戸ざして人お入ざる処に、或人所望して拝見しけるおりから、縁のほとりにてかの悪草お呑ける所に、三旬お経て、守護入せ玉ひ、此所に太破己(たばこ)の息気さかんなりとて、忌玉ひしと彼僧の語れり、清浄の鼻へは、一入悪臭うつるべし、〈下略〉明暦酉歳、武州大火の節、予が知人本郷にあり、浅草よりかけ付見舞ければ、亭主病人にて、疾家お明退けり、亭主の伯父が家も疾類火に逢、此処へ退来る処に、はや隣まで火移ければ、とく〳〵出られよと申せども、いろりのはたお離やらず、何ぞ尋るていに見へしほどに、いかやうの大切の物お失ひたるかと問ければ、いやとよたばこお一服呑たきとて、きせるお尋るとぞ答けり、もはや戸口まで火の付ければ、早々出られよとむりに引立出しけり、路すがらも是おほいなく、予お恨、せめて一服のませざらでと雲つぶやきけれ、其後世も静に成、参会のたびごとに、かのたばこの意恨、今にありとぞ申けり、此者の嫁は、其日産後七夜に当り、女房は眼病にて嫁もろともに下人に手おひかれて、行方不知なりけり、風のはげしきこと雲ばかりなし、日の光も見へず、百千の雷の一度に落かヽる様にて、四方鳴わたりし也、かヽるおりから、夭草の望、さて〳〵思へば、著心妄執の深草ぞや、其比の旧記、多く家々に有べし、故に詳に記さず、一歳浅草堀田殿の屋舗にて、塩焇おはたくとて、夭草の火移り、四五人打殺され、江府かくれ無、響雷のごとし、其時広間の番人、朝請取の者遅参とて、二人の内一人、屋舗より直に他出するとて、相番お頼、代お待うけず出けり、其以後の事也、番人科に行はるヽ次第は、請取遅参の者は閉門也、他出の者は追放、請合の者切腹しけり、常々かやうの頼みたのまるヽことは多事なれども、互の事とて、弓断する也、吟味の上には、かやうぞと知べき為に記置也、広間番人へ、火の用心申付べき由仰渡の故也、近年大坂にても塩焇飛けるも、かヽるたばこの故なるべし、かヽる悪事日々なれども、夭草のあやまちは、人とがむる者更になし、御父上野守〈◯守恐介誤〉殿は、たばこ嫌玉ひ、常に仰らるるは、無類の侍よしといへども、夭草お含お見ては、無類のたはけとこそ見なせと仰られしと也、又御祖父は、たばこ初はすきたまひけれども、其後上に御嫌とて、宿にてばかり用玉ふ処に、或時念比の衆来、咄居られしに、たばこお用玉ふお見、此人の雲、貴公に於ては、御用有まじき事と申されければ、其時赤面し玉ひ、其たばこお呑さし、烟お吹出し捨、夫より堅く御止りありけり、其一服は、吸はたし玉ふべき事なるに、誤お改は、即座にかやうなるお手本になしたきものと沙汰せり、誤お人とがむれば、明日よりあらためん、来月よりとておくる人は、一生あらためざるもの也、歴歴道お論ずる人も、此草の迷に於は、法お破りかくれ忍て用ひ玉ふ、況や凡下の者おや、一切物お隠す一念の起処は同事也、はづかしき一念とぞ、是独慎の人に非んば、是お感得すべからず、凡飲食も多中に、火煙お以慰とする事、末法悪世の印也、人の短気短才なるは、皆火の情也、此一凶お止ずんば、往々弥火難燁ならん、以上、〈◯中略〉或人の随筆三巻中より抄出す、此随筆未詳作者名字、文中お按ずるに、元禄の比の人にて、明暦の火事おも見し人と見ゆ、