[p.0581][p.0582]
鶉衣
前篇拾遺
煙草説夜道の旅のねぶたきとて、腰に茶瓶も提られず、秋の寐覚の淋しきとて、棚の餅にも手のとヾかねば、隻この烟草の友となるこそ、琴詩酒の三つにもまさるべけれ、〓のもえ杭おさがしたるは、宰予が昼寝の目ざましにて、行灯に首延したるは、小侍従が待宵ならむ、達摩は九年の壁にむかひて、炭団の重宝お悟り、西行は柳陰にしばし火打の光お楽む、されば出女の長きせるは、夕ぐれの柱にもたれて、口紅兀さじと吸たる、少は心づかひすらんお、船頭の短きせるは、舳さきに匍匐て、有明の月お詠ながら、大海へ吸がら投たるよ、いかに心のはれやかならむ、やごとなき座敷に、綟子張の煙草盆お、あまた数に引わたしたるより、路次の待合に、吸口包たるはにくからぬ風流なれど、さすがに辞義合に手間も取べし、隻木がらしの松陰に駕立て、継きせる取まはせば、茶屋の嚊のさし心得て、蚫がらに藁火もりてさし出したる、一狐千金のたとへも此時おいふにや、または雲雀なく空のどかに、行先の渡場とひながら、畑打のきせるに、がん首さしあはせて、一ふく吸付たる心こそ、漂母が飯の情より、うれしさはまさらめ、そも煙草の徳も、むかしより人のかぞへ古して、今さらいふもくどければ、かの愛〓にならひて、たヾ此類の品定せむに、酒は富貴なる者なり、茶は隠逸なる者なり、煙草はさしづめ君子の番にあたりて、用る時は一座に雲お起し、しりぞく時は袖の内に隠る、こヽに神竜の働ありともいふべし、下戸と妖物は世にすたれて、下戸は猶少からず、今や希なるは、たばこぎらひにして、野にも吸、山にも吸へば、たばこ入の風流、日々にさかんに、きせるの物ずき、とし〳〵にあたらしくて、若輩の目お迷せども、楠が金剛山の壁書おみて思ふに、たばこははさがぬお専とし、きせるはよく通り、灰吹はころばぬお最上とこそ、さらば色みえでうつろふ花の人心にも、畢竟そのものヽ本情実儀おうしなはざれとなり、