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めざまし草
古今形勢たばこといふもの、異国よりこヽへ伝来せしより二百年にあまりて、久しきならはしとなりぬれば、世の人貴賤ともに、其謂おも知らず、よるひるとなくけふらすることヽなりて、今はひとひもこのきみなくてはともいふべく、まことに酒にも茶にもまさるものになん、されば手と口とに離さず、しばしもかたはらにおかねば事かくるがごとしげにも飽けばうえしめ、飢ればあかしめ、醒ればえはしめ、酔ばさますとぞ、世の人なべて此功徳お知り、世界のかぎり、所として此草お植ぬもなく、人として此葉お嗜ぬもなく、世に行れて、年暦百年にも及びしころほひより、詩にも賦し、歌にも詠じ、これお称美して止ず、其くさ〴〵の徳おいはんには、あつさおも忘れ、寒さおもしのぎ、夏の日永の眠がちなるおさまし、春の暁の覚めがたき夢おもやぶり、あるは秋冬の夜ながき、老が身のねぶりがたきには、従者女童など、たばこ吸ふ火はありやなしやと問ひて、わびしきお助くる心しらひお喜び、又何くれと物がなしきうきおもわすれ、あるはすまのうらさびしき、ひとり住の身の上には、よきしほがまのけぶり草とも知らるヽなり、或人の口ずさめるに、昔し誰が寝覚の床のさびしさお忘るヽ草の種はまきけん、とあるもさることなり、又貞柳とかいへるものヽ狂歌とて、雲と見る芳野たばこのうすけふりはなのあたりお立のぼるかな、と戯むれしもおかし、又親しき友どちよりつどひて、旧きおかたらひつるにも、これなくては其しほなきにも似たり、たとひ山海の珍味おつくせる酒宴のむしろにも、時々これお吸ざれば、物たらぬ心地す、又野辺の遊び、川せうえう、月の前、花のもと、酒の後、茶のさきにも、この煙おかおらし、雨に対し、雪お賞し、閑窻のうちに、ひとりつくえによりて物かうがふる折ふし又旅ゆく朝戸出に、たばこ吸ながらにあゆめる趣、又家のうちにありても、あやにくに事しげきころ、たヾひとひきすひたるは、いはんかたなくぞおぼゆる、憂につけ、楽しきにつけても、これお伴はざれば、悶る気もひらかず、嬉しき心ものびざるがごとし、近き世の人のはいかいのほくとて、西行の秋はたばこもなき世かな、といひしもさることぞかし、すでに此物世にあまねくひろまり、人ごと家ごとに用ふることになりては、客人おもてなすにも、まつ前に是お進むるお常のならはしとすることになんなりける、いはんもかしこけれど、それのみかどの御製とて、もくづたくあまならねどもけぶりぐさなみよる人のしほとこそなれ、とよませ給へりとか、また妙法院の宮の御言葉とて、たばこに七の徳ありとの給ひしものも見えたり、又もろこし人は、一名お相思草といひて、人ひとたびこれお吸ふときは、朝夕思ひこがれて止ときなしとなん、とにもかくにも、あやしきまで人のめづる草にこそありけれ、