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菊花俗談
元禄の初つかた、都下に菊作る人あり、其頃は花の名お賞して玩ぶ者なかりき、花の径りは曲尺にて寸より二三寸迄なり、宝永の頃より、名お賞して玩ぶ者ありし、正徳の末つかた、高根、小倉山抔といふ菊あり、享保に至る迄、花形に丁子咲、毛咲、管咲の類ひあれども、余に賞せず、近世菊花盛んなる趣意は、享保十乙巳年五月、紀州和歌山より、紀藩の臣落合氏菊苗お都下へ持来り、此種色々変じて珍花たり、此菊の生は、菊の中の別種なり、茎細く花葉抔も麗、近来の珍華也、此菊上月吉岡の両氏へ贈り、夫より日向畠山奥津の三氏へ移り、僕〈◯松籟軒南甫〉この花お奇観する事四年の間なり、同十四己酉春、此菊お奥津氏より得て、年々種お蒔、今三十四年に至る、其頃は秘華珍品と賞して、実生お仕立おくに、散らすべからずと〓おなし、各相応の花壇お構へ愛玩す、世人是お知らず、時に渋谷山栄伝僧、此花手に入培養専にして、益色々の実生出たり、此菊お世人賞すといへども、金王菊と名付、其頃は他仁へ苗送らず、因て尊秘計にて此菊お求んと欲て、紀州和歌山お初として、諸国お尋るといへども、此菊花得がたし、かくの如くの珍花なり、然るといへども正菊にあらず、異形の花也、況やよれくるい巻込咲お、むかし愛玩する事お聞かず、故に斯なるは造化の変にて、変じたる珍華なるべし、先づ吉野山、飛鳥山、金王桜筆捨松、大真殿、各秘花にて、其頃は世人の得難き菊なり、此外珍花数多出たり、此時より〓り咲よれ咲お、世人珍花と称して、菊花大気に盛んなり、