[p.0706]
文恭院殿御実紀附録

或日松平楽翁定信の邸お、林大学頭衡とひし時、めづらかなる菊花三十種あまりお、いと清らかなる筥に入たるお出してしめされ、こは本城の内苑へ培養し玉へる実生の花とて、御側申次土岐豊前守朝旨もて、うち〳〵賜はりしなり、それのみならず、もし其うちに得まほしく思ふ花もあらば申出よ、苗おわかちて下したまはるべしとの御旨なり、いと有難き御恵ならずや、花はかぎり有て萎むべければ、盛慮の厚きことお、永く感戴し奉らんと思ふなりと、物語ありしとぞ、いづれの秋のことなりしや、菊苗お閣老に分ちたまはりしに、翌年花の頃になりて、去年たまはりし菊の花さかば、吾一観に献ぜよと仰事ありければ、諸老みな退きて花片おきり、名器にのせてたてまつりぬ、其花いづれも絢煉富麗にして、いふばかりなく美事なりしに、一人水野越前守忠邦がたてまつりし菊の、花容萎蕭のさまにて、余の花に比すれば、更に見所もなくぞ有ける、公〈◯徳川家斉〉つら〳〵見給ふて、各たてまつりし富麗のものは、必ず園丁に任せ培養お尽して、この美おなせしことならん、越前の花のうるはしからざるは、極めて親培せしなるべしと宣ひて、これより忠邦お寵遇し玉ふ事、他に異なりしとぞ、