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今昔物語
二十八
信濃守藤原陳忠落入御坂語第卅八今昔、信濃の守藤原の陳忠と雲ふ人有けり、任国に下て国お治て、任畢にければ上けるに、御坂お越る間に、多の馬共に荷お懸け、人の乗たる馬員不知ず、次ぎて行ける程に、多の人の乗たる中に、守の乗たりける馬しも、懸橋の〓の木お、後足お以て踏折て、守逆様に馬に乗作ら落入ぬ、〈◯中略〉遥の底に叫ぶ音仏に聞ゆ、守の殿は御ましけりなど雲て、待叫び為るに、守叫て物雲ふ音遥に遠く聞ゆれば、其の物は宣ふなるは、穴鎌何事お宣ふぞ聞々けと雲へば、旅籠に縄お長く付て下せと宣ふなど、然れば守は生て物に留りて御する也けりと知て、旅籠に多の人の差縄共お取り集めて結て結継で、それ〳〵と下しつ、縄の尻も無く下したる程に、縄留りて不引ねば、今は下著にたるなめりと思て有るに、底に今は引上げよと雲ふ音聞ゆれば、其は引けと有なるはと雲て絡上るに、極く軽くて上れば此の旅籠こそ軽けれ、守の殿の乗り給へらば、重くこそ可有ければと雲へば、亦或る者は木の枝などお取りすがり給ひたれば、軽きにこそ有めれなど雲て、引く程に、旅籠お引上たるお見れば、平〓の限り一旅籠入たり、然れば心も不得で、互に顔共お護て、此は何にと雲ふ程に、亦聞けば底音有て然て亦下せと叫ぶなり、此れお聞て然は亦下せと雲て、旅籠お下しつ、亦引けと雲ふ音有れば、音に随て引くに、此の度は極く重し、数の人懸りて絡上たるお見れば、守旅籠に乗て被絡上たり、守片手には縄お捕へ給へり、今片手には平〓お三総許持て上給へり、引上つれば、懸橋の上に居えて、郎等共喜合て、抑も此は何ぞの平〓にか候ぞと問へば、守答ふる様、落入つる時に、馬は疾く底に落入つるに、我れは送れてそめき落行つる程に、木の枝の滋く指合たる上に、不意に落懸りつれば、其の木の枝お捕へて下つるに、下に大きなる木の枝の障つれば、其れお踏へて大きなる胯の枝に取付て、其れお抱かへて留りたりつるに、其の木に平〓の多く生たりつれば、難見棄くて、先づ手の及びつる限り取て、旅籠に入れて上つる也、未だ残りや有つらむ、雲はむ方無く多かりつる物かな、極き損お取つる物かな、極き損お取つる心地こそすれと雲へば、郎等共現に御損に候など雲て、其の時にぞ集て散と咲ひにけり、〈◯下略〉