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円珠庵雑記
しのぶ草に三つあり、ひとつには、垣衣つねの如し、ふたつには忘草お又はしのぶ草といふよし、大和物がたりに見えたり、これに付きて先達多くあやまりて、垣衣おわすれ草とこころ得られたるもあり、又垣衣の外にわすれ草といふ物の、軒におふるよしによめるもあり、わすれぐさおふる野べとは見るらめどと、業平のよめる物お、いかで軒の草とはいふべき、又伊勢物語の心は、一草二名とは聞えず、業平のしのぶとはいひつヽ忘れたるお、女うらみてこれおわすれ草ともやいふとて、しのぶ草お出だして、思ふ心おふたつの草の名にそへたり、下の心はしのぶおばわすれ草とは申さぬものおといへるなり、三つには、万葉に菅おもしのぶ草とよめり、しのび草とよめるは、かたらひ草のたぐひなり、重之集に、ことのはにいひ置く露もなかりけりしのび草にはねおのみぞなく、元輔集に、行く先のしのび草にもなるやとて露のかたみにおかんとぞ思ふ、真淵(〓頭書〓)雲、伊勢物語にいへるは、わざと名おかへいひて、男のいはんにつけて、うらみんとまうけたる事、此人のいふがごとし、大和物語の頃にしも、誤る人ありつらん、しのぶ草は、枕の草子に、くちたる物のはしなどに生ふるがおかしきよしいへれば、軒に生ふる苔の類にて、さる物のあるなり、わすれ草は、万葉にも萱草と書き、かの忘憂草の意によみたり、且枕冊子に、六月わすれ草の花の咲きたるよしありて、萱草にうたがひなし、又万葉に菅おしのぶ草とよめるといふは、しのぶ草ははへてましおとよめるおいふなり、然れども、それ物語種の意おかたらひ草といふがごとく、したはるヽ思ひ草おはらへ捨てましおといふにて、菅おいふにはあらず、続古今恋五、わするヽもしのぶも同じ古郷ののきばの草の名にこそありけれ、真淵雲、こは理おいふ時は、忍び種なれど、猶忍ぶ草とよみて、さる心とも聞ゆべければ、いかヾあらん、古きよき本にしのびと書きてあるにや、後の本はたのみがたし、