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玉勝間

しのぶもぢずり(○○○○○○○)しのぶもぢずりといひし物は、古今集の河原左大臣の歌の、顕昭の注に、陸奥国の信夫郡にもぢずりとて、髪おみだしたるやうにすりたるおしのぶずりといふといひ、契沖が勢語億断にも、信夫郡よりむかし摺て出したる名物なりといへるがごとし、然るお師〈◯賀茂真淵〉のいせ物語古意に、垣衣草(しのぶぐさ)の形お、紫の色もて摺たるおいふと見えたり、陸奥国に石二つある、其石にてすりたるよしいふは偽言なり、むかしのすり衣は家々にてこそすりたれとて、己が家々にてすりたりし証お出し、さて垣衣草の形の乱れたるおもて、おのが恋のみだれにたぐへたりといはれたるはいかにぞや、いせ物がたりの歌にては、さ聞ゆることも有べかめれど、そは次に古今集なる河原大臣の歌お出して、といふ歌のこヽろばへなりといへり、これしのぶのみだれとよめるは、しのぶずりの乱れといふ意也と、しらせたる也、かの紫の色こきときはといふ歌の次に、むさし野のこころなるべしといへるおもおもひ合すべし、もししのぶ草のかたおすりたるおよめるならば、古今の歌お引出たるは、用なきいたづらごと也、又垣衣草のかたならんには、かの古今の歌、軒に生るなどこそよむべけれ、みちのくのとよめるは何のよしぞや、かの国に信夫郡といふがあればとて、さる遠き国の名おとり出て、よしもなき垣衣草の枕詞にはおくべき物かは、又みだるヽよしおいはむに、しのぶ草はいとも似つかはしからず、かの草のさまは、さいふばかりみだれたる物にはあらず、それも摺たる形は乱れてもあるべけれど、すりたるにつけてみだれたらんは、いづれの物のかたにても同じことなるべし、いたく物よりことに乱れたる形ならではかなはず、又垣衣(しのぶ)はとり分て摺染(すりぞめ)などにすべき物にもあらざるおや、さて又かの信夫郡より出といふことお破りて、布など染たるお、諸国より貢ることは古見えずといはれたるもたがへり、延喜の大蔵内蔵などの式にも、諸国所貢染布の色々など見えたるおや、すり衣は、おのが家々にてこそ摺たれといはるれども、さりとて外より摺ていだすこともなどかなからん、国々より出て名ある物お、めで用ふることは、今も昔も同じこと也、さて信夫郡に石の有しにてすれりといふはいかヾ有けむ、されどまことに然なりけんもしりがたきお、ひたぶるに偽言也とはいふべくもあらず、その石の事はとまれかくまれ、信夫郡より出せりしことは論なきおや、