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古今要覧
器財
古尺大小量或人問ふて雲はく、古語拾遺の本文に天御量とあるところの本註に、大小量とあるお大小の度なりといへるは、実にさも有べく聞ゆれど、さらばその大量小量といふは何なる度ぞ、大量は令の大尺、小量は令の小尺なるか、今世に伝はる尺度のしな〳〵あるが中に、いづれか皇国の真度なる、くはしく其説おきかむ、答ふ、広成宿禰の謂ゆる大小量は、すなはち令の大尺小尺にて、宮殿造営の度なれば、大量とは大尺おいひて度地にもちひ、小量とは小尺おいひて造営にもちふ、其尺度は今の世まで番匠の用ふる鉄尺(かねさし)とも曲尺(まがりかね)ともいふ、すなはち其度なり、抑この大小量は天つ神世に、天太玉命、かの大御神の新宮お造らせ給ひし以来、その子孫たる斎部首の家に伝はり、人世となりて、神武天皇の御世に御殿おつくり給ふに、太玉命の孫天富命こ  れお掌どり、其後ついに此家の職掌となり、神宮皇宮ともにつくり奉れるが、移りて木工長上に伝はり、〈木工長上お、後には頭工とはいへり、〉ひろく番匠に伝はれること、古語拾遺、延喜の神祇式、大殿祭詞、延暦の儀式帳、心御柱記、などお照し見て知らる、また此尺お用ふることたヾ造営のみにあらず、伊勢神宮に奉る御装束、また御調度等も此尺お用ひしこと、寛正四年に荒木田氏経のしるせる日次記に、以往より定まれる鉄尺おもつて、御装束お差たりと有にてしらる、けだし是は垂仁天皇の御世に、はじめて伊勢の神宮お造られし時よりの御制お易給はざる式なること、大同本記にその時の御杖代たりし、倭姫命の左〈は〉左、右〈は〉右、違事奈久奉仕と宣へる御語にて知られたり、