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本朝度量権衡考

古尺の今世に残り傅はる者お求むるに、大和国法隆寺に象牙尺あり、聖徳太子の遺物なりと雲傅ふ、吾友松崎嫌堂、〈復〉これお唐の鏤牙尺ならんと雲へり、この説拠り信ずべし、然らば聖徳太子の遺物にはあらで、遣唐使帰化人などの将来せしものヽ、寺家に入りしが傅はれるならん、〈長さ今の曲尺の九寸八分弱なり、陸奥国耶麻郡大寺村の慧日寺に、瑠璃尺と雲へる尺お蔵す、平将門が女、如蔵尼の遺物なりと雲伝ふ、其模造したるお見しに、大体法隆寺の尺と同じ、たヾ法隆寺の尺は紅に綵りたるお、是は青く綵りたるが異なるのみ、其質は牙尺なれども、青きによりて瑠璃尺とは雲ふなり、其長さ法隆寺の尺に比れば、四釐許長し、是も唐の鏤牙尺なるべし、〉即唐の大尺なるべけれども、儀物にして用尺にあらざれば、拠となし難し、〈○中略〉又古き寺々に、律尺とて蔵するあり、〈律とは、釈家の法律の律にて、音律の律には非ず、〉予〈○狩谷望之〉其模お得しは、叡山尺、〈曲尺七寸六分強、背に山門僧恵定、於宝乗院【K一】写とあり、〉高野尺、〈曲尺七寸九分強、背に宝永九年、於【K二】高野山【K一】酬恩庵、僧久竺写とあり、〉東寺金蓮院尺、〈曲尺八寸一分強、背に大師所用之とあり、〉槙尾尺、〈曲尺八寸二分弱、背に東寺一体とあり、〉泉涌寺尺、〈曲尺八寸二分、俊芿国師、将来の物と雲伝ふ、按ずるに、泉涌寺長典筆記には、周尺事、当世流布に有【K二】三不同【K一】仏所の用は、金尺の八寸なり、建仁寺の相伝は八寸二分に余る、当時の相承は八寸一分半なりとあり、此筆記は、文亀永正の間のものなり、今彼寺の尺お模したるお計れば、八寸二分なるに、長典は八寸一分半と雲へり、其校せし長さ、半分の異あるは、其頃既に訛長の曲尺ありて計りしにや、中根璋が、律原発揮には、八寸二分有奇と雲へば、余が得し模尺の訛長したりしにはあらざるべし、〉大安寺尺、〈曲尺八寸二分半、背に康永二年九月十四日、以【K二】大安寺宝蔵本【K一】写【Kれ】之、於【K二】西大寺二聖院【K一】、尊照法師写【Kれ】之、大師将来御什物之内也とあり、〉法寿庵尺、〈曲尺八寸三分、背に南都瓦釜町、法寿庵律尺とあり、〉生駒長福寺尺、〈曲尺八寸四分、背に延宝七年己未、於【K二】和州金竜山長福寺【K一】作とあり、〉これ等なり、