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本朝度量権衡考

按ずるに、〈○中略〉皇后は天平宝字四年春秋六十にて崩じ給ふ、聖武皇帝儲弐 たりし時、納れて妃とし給ひしは、御年十六の時なりと続日本紀に見ゆ、然れば皇后は大宝元年に生れ給ひ、妃となり給ひしは霊亀二年にて、和銅六年には御年十三なり、然らば皇后の家に坐し時教へ給ひしは、和銅六年改制の称尺なるべし、尺は皇極天皇孝徳天皇の紀に見え、称は斉明天皇天智天皇の紀に見え、度量お天下に頒たれしこと、文武天皇の紀に載せ、大宝の令にも、正しく度量権衡の制お挙られたるお、思託〈○上文東大寺要録【Kれ】所載延暦録僧録文著者〉は唐人なれば、〈鑑真に従ひて帰化せし僧なり〉皇国の典故お知らで、和銅の時まで皇国に称尺無かりしお、皇后の始て教へ給ひしと誤りたるなり、其実は皇后の教へ給ひしは、和銅改制の称尺にて、此時称尺お始て用ひしにはあらず、和銅六年は、唐の開元元年に当れり、