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甲斐国志
二国法
桝屋一本州の桝は、方七寸五分に、深三寸四分五厘七毫四四、〈但京桝三升入〉為【K二】之壱升【K一】、既甲州桝とも鉄判(かなばん)とも三升桝とも雲、又都留郡は以【K二】弐升五合【K一】為【K二】壱升【K一】、異【K二】其制【K一】なり、はたご、壱升の四半なり、是お壱配と雲、一日壱人の賄料とす、〈但京升七合五勺入〉方四寸五分、深弐寸四分零一、又四(よ)つ入とも名づく、なから、即ち半(なから)と雲義にて、端子(はたご)の半分なり、壱升には八分の一に当る、〈但京升弐合七勺五才入〉又此桝おせんじとも呼べり、方三寸六分、深壱寸八分七厘五毫なり、小半(こなから)、なからの半分なり、是お小せんじと雲、方弐寸八分、深壱寸五分五厘余、〈京升壱合八勺七才五〉即ち壱升十六分の壱にして、中人以上の食に充つ、其次は壱升 お拾人にて食す、労力者は八人飯(めし)と雲、京桝七合五勺お二度に食す、大抵米壱俵〈京升三斗六升入〉百人して食す、大積也と、蓋旧説也、 府中工(たくみ)町に桝屋伝之丞と雲者あり、造【Kれ】桝焼印お押、彼先祖小倉総次郎とて、武田家の印書お持伝ふ、〈府中諸職人部にも出せり○中略〉又伝之丞家蔵に陣米京桝壱升あり、伝へ雲ふ、大久保石見守国奉行の時、平岡岡右衛門より被【Kれ】渡由にて、岩波七郎右衛門、於【K二】役所【K一】請【K二】取之【K一】、即ち京桝壱升入、同五合入、同弐合五勺入、三品造らせらる、其御様し米なり、以【Kれ】故京桝おも造り来るとなり、按に是は慶長十二年以後、御料の頃なるべし、日向半兵衛奉行の時、同名五兵衛の印書おも併せ蔵む、籾斗桶は、甲州桝三升六合六勺六才六六入、〈但京升壱斗壱升入〉六桶お為【K二】壱俵【K一】、即弐斗弐升入なり、円径内法(うちのり)、口にて壱尺、深壱尺、外〈の〉総高壱尺弐寸に造る、米斗桶は、京桝壱斗弐升入、〈但甲州升には四升〉三桶にて三斗六升お為【K二】壱俵【K一】、当時御収納米に用【Kれ】之、円径内法、口にて壱尺弐寸、深壱尺、外〈の〉総高壱尺三寸なり、右両品桶屋町の弥五右衛門と雲者造【Kれ】之、彼が先祖は勝村清兵衛と雲、武田家以来の印書お蔵す、有【Kれ】故更【K二】氏細井【K一】、因て今細字お焼印に用て、桶の外〈へ〉押す、鉄具は鍛冶町の源次右衛門と雲者造【Kれ】之、桶の内へ斎字の焼印お押す、是も斎木助三郎とて、武田家の印章お蔵む、職人部に委し、古人雲、昔時本州は皆籾納にして、壱俵弐斗入り六桶に積り、壱桶は三升三合三勺三撮なり、慶長年中、国民党結して、大久保石見守、積年私曲ある事お訴【K二】于駿府【K一】、中郡筋極楽寺村の郷士新屋将監が輩、魁首として、筋々より蟻の如に集る、時に石見守疾く知て自殺すと雖も、姦謀愈発覚し、遂に三族お夷せらる、下吏繫【Kれ】獄者多し、然して国法寧一に帰し、諸民安堵して尽く恩お拝す、其頃神祖諭し示したまふには、本州の籾壱俵六斗入お以て換【K二】米三斗六升【K一】、古来六合摺の名あれ共、其実に相当り難し、自【Kれ】今壱斗に壱升宛減籾お加へて、六斗六升お壱俵と定むべし、即甲州升弐斗弐升入 なり、且又武田の時は、国限りの収納なれば、口米の沙汰に及ばず、以来は他国運送の事可【Kれ】有なれば、自余の国に准拠し、甲州は籾壱俵に甲州桝一升宛出すべしと雲々、国民承服、無【K二】敢違戻者【K一】、永世以為【Kれ】法、自【Kれ】是五合四勺五才四五余の摺に、当今の斗桶お造る所なり、尚租税の条下に詳にす、〈○中略〉都留郡の桝(○○○○○)は、甲州桝八合三勺三才三お為【K二】壱升【K一】、京桝弐升五合なり、小山田氏の所【Kれ】定と雲、勝山神主が所蔵、天文十一年、米八百文に、今桝四升と見ゆ、其比に始りし事にや、