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経済録
四律暦
日本の量、古代は如何なる制にて、斗斛の大小幾許なりしと雲事詳ならず、近世までは曲尺にて方五寸、深さ二寸五分お升とせしお、当代改めて方四寸九分、深さ二寸七分とせり、方にて一分お損し、深さにて二分お増たるによりて、内実旧量よりも多し、旧量は一升の内実六十二寸五なりしに、今の新量は六十四寸八二七なり、是新量は旧量より大なり、此新量お今升と称して行ふによりて、旧量おば古升と称して用ひず、国家既に新量お制せられてより、都下に官局お立て、大小の量器お作らしむ、其制鉄お以て外お固め、口には斜に鉄弦お施して、姦滑の者も輒く削小することお防ぎ、底に烙印お打して制度お明にす、世俗これおつるかけますと雲ふ、此法量お天下に行ひてより、民間にて私に量器お作ることお禁ず、是誠に律度量衡お同くすといへるに合へる故なり、然れども如何なる故にや、民間にて私量お作り用ること、今に至るまで止まず、〈○中略〉又甲州には武田氏の制とて、二升五合お一升とする量あり、江州には佐々木氏の制とて、八合お一升とする量あり、これお武者升と雲ふ、武者は地の名なり、江州の内は今も此量お用ゆ、予州勢州には、六合お一升とする量あり、封建の世は、諸候国別に制度お立て、其風俗に従て治むるは固よりの事なれども、度量衡の三つは、天下通用する法度の器にて、一統の制お守るべき義なる故に、唐虞の世の政に、同【K二】律度量衡【K一】といへり、孔子の言に、謹【K二】権量【K一】審【K二】法度【K一】とのたまへる、すなはち此義なり、