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権衡は物の軽重お量るの謂にて、其器お名づけて、はかりと雲ふ、此器は何の時に起りしにか詳ならず、其史に見えたるは、崇峻天皇の代に、久比と雲ふ者の、呉国の権お献じたるお以て始とす、其後舒明天皇の代に、斤両お定むること有れども、其制詳ならず、文武天皇の大宝制令に至り、斤両に大小両種ありて、二十四銖お一両とし、十六両お一斤とし、小両の三両お以て、大両の一両と為して、銀銅等お量るにのみ大お用い、余は皆小お用いしむ、而して官私並に、大蔵省及び国司の題印お請くること、度量の二器に同じ、然るに桓武天皇の延暦の頃に至りては、大小の用法、及び其器の製作も漸く濫れて、題印お請くることも行はれざりしかば、勅して令制に従ふべきことお令せられたり、而して延喜式の制に、湯薬お調合するにのみ小お用い、余は皆大お用いしめたるは、恐らくは和銅六年、改制の時の定ならん、降て徳川幕府に至りて、秤座お江戸と京都との二所に設け、江戸は守随彦太郎おして之お管掌せしめ、東三十三国之に従はしめ、京都は神善四郎おして之お管掌せしめ、西三十五国之に従はしむ、而して其偽濫お防ぐが為に検定することおも、亦秤座に委任せり、按ずるに、二十四銖お一両とし、十六両お一斤とするは、古来の定なれども、後世匁の名起るに至り、銖両の名は、大に其用お減ぜり、例へば何貫何百何十何匁何分何厘何毛何糸と雲ふ が如し、此匁と雲ふは、開元銭一文の重より起りたるものにて、匁は即ち銭の字なり、而して斤両に京目田舎目の区別、匁に唐目、大和目等の区別あり、