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三貨図彙

今の秤の目、一文目は、開元銭一文の量目なり、十文目お一両とする事、唐の制にして、則開元銭お法とす、今後藤家にて造る分銅(○○)十匁は、銘に一両とあり、両目は十両、五百目は五十両とあり、皆唐の制による歟、右分銅の制、何れの世より起ると雲ことお不【Kれ】知、〈○中略〉令義解に凡用【K二】度量権【K一】官司、〈謂大蔵省、及諸国司之類、〉皆給【Kれ】様、其様皆銅為【Kれ】之とあり、今の分銅の形の物なるや、右様の分銅秤は世に存せず、仍て其形お不【Kれ】知、今造る所の分銅秤は、慶長年中、神祖の命有て、今の座方の組に造る事お免許せらる、分銅の形、如【Kれ】今表に両銘ありて鶴亀の模様毛彫あり、裏に後藤家極印有と雲、按に慶長時代の秤に、宝尽し、或は秋の野に蝶などの模様有【Kれ】之秤あり、これ等は諸侯の好む処歟、右の 分銅も此類ならん、併し慶長以前のことは不【Kれ】知、元和以来寛永の頃の分銅は如【Kれ】今なれども、美銅にして彫銘も正しく、黄唐銅と雲が如し、今用ゆるとは制至て精し、〈○中略〉此分銅、大坂にては十人両替の者、寛文年以来所持し仲間の新分銅、是に合せて軽重お量り、於【K二】会所【K一】月々立会改【Kれ】之、是お様見せ新分銅と雲、元文年中、後藤家より、諸国分銅改の時、是お取上げ潰しとす、仍て今其古物世に存せず、秤は猶古物世に残りて、今も座方の改お請て用ゆることお免す、〈○中略〉今海内用ゆる所の分銅、是又後藤家より造り出す、併し元和年前後、一統ならざる時代は、右分銅も民間に数なく、依て士民私に分銅お造り、極印なくして是お用ひしなり、漸く治世に及び寛文五年、始て公の制令ありて是お改めらる、其時右極印の分銅は、其儘目方相改め、於【Kれ】無【K二】相違【K一】は、後藤家より極印お打、印料おとり、其儘に通用せしとなり、