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源平盛衰記
三十八
重国花方帯院宣西国下向同上洛奉返状事
同十五日〈◯寿永三年二月〉に、重衡の使平左衛門尉重国、院宣お帯して西国へ下向、院〈◯後白河〉よりは御壺召次に花方と雲者お被副下けり、彼院宣に雲、
一人聖帝〈◯安徳〉出北闕九重之台、而幸于九州、三種神器(○○○○)移南海四国之境、而経数年、猶朝家之御歎、亡国之為基也、彼重衡卿者、東大寺焼失之逆臣也、任頼朝申請之旨、雖須被行死罪、独別親類已為生虜、籠鳥恋雲之思、遥浮千里之南海、帰雁失友之情、定通九重之中途歟、然則於奉返入三種神器(○○○○)者、速可被寛宥彼卿也者、院宣如此、仍執達如件、
   元暦元年二月十四日           大膳大夫業忠奉
              平大納言殿
とぞ被書たる、三位中将〈◯平重衡〉も、内大臣〈◯平宗盛〉并平大納言〈◯平時忠〉の許へ、院宣の趣委被申下けり、母二位殿へも、御文細やかに書て、今一度重衡お御覧ぜんと思召ば、内侍所(○○○)お都へ返入進する様に、よくよく大臣殿に申させ給へとぞ書下し給ける、〈◯中略〉二十七日には、西国へ被下遣重衡卿の使、重国、召次花方両人帰洛して、右衛門権佐定長の宿所に行向て、前内大臣宗盛の被申たる、奉院宣御返事、定長則院参して是お奏聞す、彼状に雲、
右今月十四日院宣、同二十四日讃岐国屋嶋浦到来、謹所承如件、就之案之、通盛已下当家数輩、於摂津国一谷已被誅畢、何重衡一人可悦寛宥之院宣哉、抑我君〈◯安徳〉者、受故高倉院之御譲、御在位既四箇年、雖無其御恙、東夷結党責上、北狄成群乱入之間、且任幼帝〈◯安徳〉母后〈◯建礼門院〉之御歎猶深、且依外戚外舅之愚志不浅固辞北闕之花台、遷幸西海之薮屋、但再於無旧都之還御者、三種神器争可被放玉体哉、夫臣者以君為体、君者以臣為体、君安則臣不苦、君憂則臣不楽、謹思臣等之先祖、平将軍貞盛追討相馬小次郎将門、而自鎮東八箇国以降、伝子子孫孫、誅勠朝敵之謀臣、及代代世世、奉守禁闕之朝家、就中亡父太政大臣〈◯平清盛〉保元平治両度合戦之時、重勅威、軽愚命、是偏奉為君非為身、而彼頼朝者、父左馬頭義朝謀叛之時、頻可誅罰之由、雖被仰下于故入道大相国、慈悲之余所申宥流罪也、援頼朝已忘昔之高恩、今不顧芳志、忽以流人之身、濫列凶徒之類、愚意之至、思慮之讐也、猶招神兵天罰、速期廃跡沈滅者歟、日月為一物不暗其明、明王為一人不枉其法、何以一情不覚大徳文、但君不思召忘亡父数度之奉公者、早可有御幸于西国歟、于時臣等奉院宣、忽出蓬屋之新館、再帰花亭之旧都、然者四国九国如雲集靡異賊、西海南海如霞随誅逆夷、其時主上帯三種神器、幸九重之鳳闕、若不雪曾稽之恥者、相当于人王八十一代之御宇、我朝之御宝、引波随風赴新羅高麗百済契丹、雖成異朝之財、終無帰洛之期歟、以此旨可然之様、可令洩奏聞給、宗盛頓首謹言、
   元暦元年二月廿八日           内大臣宗盛請文
とぞ被書たりける、
◯按ずるに、当時平家の形勢たる、元暦の年号は用いるべからず、寿永三年お用いしなるへし、元暦元年は、恐らくは後人の改め書きしものならん、