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源平盛衰記
四十三
二位禅尼入海并平家亡虜人々付京都注進事
二位殿〈◯平清盛妻〉今は限とみはて給ひにければ、練色の二衣引纏ひ、白袴のそば高く夾て、先帝おいだき奉り、帯にて我身にゆひ合せまいらせ、寳劔(○○)お腰にさし、神璽(○○)お脇にはさみて船耳に臨み給ふ、先帝〈◯安徳〉は八にぞならせ給ひける、御年の程よりは子びとヽのほらせ給ひて、御形あてにうつくし、御髪黒くふさやかにして、御脊にかヽり給へる御貌、たぐひなくぞみえさせ給ひける、御心まよひたる御気色にて、こはいづくへゆくべきぞと仰せられけるこそ悲しけれ、二位殿は兵共が御船に矢お進せ候へば、別の御船へ行幸なしまいらせ候とて、
 今ぞしるみもすそ河の流には浪の下にも都ありとは、との給もはてず、海に入り給ければ、八条殿同くつづきて入給にけり、〈◯中略〉兵共先帝の御船に乱入て、大なる唐櫃の鏁ねぢ破りて、中なる箱お取り出し、箱のからげ緒きり解て蓋おあけんずとしければ、忽に目眩鼻血たる、平大納言時忠卿見給て、内侍所(○○○)の御箱なり、狼籍なりとの給へば、判官〈◯源義経〉是おきヽて制止お加ふ、武士共御船お罷出ぬ、即平大納言に申て、如本御唐櫃に納入れ奉る、末代と雲へども、かく霊験の御坐すこそ目出けれ、神璽(○○)は海上に浮給たりけるお、片岡太郎経春取上げ奉る、〈◯中略〉同四月四日、〈◯文治元年〉九郎判官義経合戦の次第注進して、以飛脚院〈◯後白河〉御所へ奏申けり、注進状には、去三月廿四日午刻、於長門国壇浦、平氏悉討取、大将軍前内大臣〈◯平宗盛〉已下虜、神璽内侍所(○○○○○)無為可帰入御座、寳(○)劔厳島神主景弘仰、探求海底、〈◯中略〉とぞ注し申たりける、〈◯中略〉同日に徳大寺内大臣実定、院御所六条殿へ被参たり、以大蔵卿泰経卿、神鏡神璽は無為に御座、寳劔は厳島神主仰景弘、探求海底之由義経言上す、生虜前内大臣已下の罪科、何様に可被行哉と被仰下ければ、実定畏て璽鏡(○○)事、弁官并近衛司等お雖可被指遣、定て及遅参歟、先為軍将沙汰奉渡淀辺事由お奏せば、供奉人等参向して、奉迎之条可宜歟、生虜の輩が罪の所致、隻可被決叡慮とぞ被申ける、〈◯又見平家物語、愚管抄、〉