[p.0113][p.0114]
残桜記
身人部氏家譜に、此遷幸の時、御途のほどの害おあやぶませ給ひ、密に日野資朝卿、身人部阿波守信秀が子、石見守清鷹におほせて、神器お擬作せしめて、仮に大御身に随へさせ給ひ、真の三種の神器おば、比叡山横川の経蔵に、深く隠し蔵め置せ給ひけるお、明る延元二年三月五日、資朝卿、清鷹また清鷹が妻と女子とお随へて、潜に神器お守護奉り、石山越お吉野へ参向ふ、しかるに清鷹去年比叡山の軍の時、左の股に受たりける矢疵の悩発りて、同十日、山中にて卒りにき、これより資朝卿かの二人の女お随へて、同十三日、吉野の行宮に恙なく参着き、神器お捧奉給ひき、此功によりて、清鷹が女お、新内侍にいふになされけり、〈◯中略〉此身人部といふは、今御随身にて、家号お水口と称ふ、其が古き家譜に書記せる趣なり、但し日野資朝卿は、前に元弘二年佐渡の国にて失はれ給へるよし、書どもに見えたるお、此家譜に然記せるは、もし実はよくこしらへて、佐渡お遁れ出おはして、此時の御供仕奉り給ひたりしにや、さらずば御子資光卿なりけるお、父の御名に混へて、謬り語り伝へたりしにはあらざるか、さて又上件の御事は、いともかしこき御秘事にして、世に聞ゆべきにもあらざれば、書どもに記し伝へざりけるは然ることなるお、たま〳〵さる由ありて、身人部の家譜に記し伝へたるものなりけり、然れば今あらはし申さむことはいとかしこきわざながら、かヽるめでたき大御世にありて、そのかみの御事おかしこくも思やり奉るあまりに、書添へつ、あなかしこ、
◯按ずるに、身人部氏家譜は、記文に疑ふべき事なきに非ずと雖も、姑く参考の為に之お録す、