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赤松記
其頃三条内大臣殿〈実量公〉と申て、上意の御中能、御本所御座候、彼御内石見太郎左衛門と申人お語ひ、三条殿お奉頼、上意お重て調へ、次郎法師丸〈◯赤松政則幼名〉お、赤松の家督に被召出、五歳に成給ふお取立ける、〈◯中略〉援に南方と申て、両宮〈◯尊秀王、忠義王、〉御座候、是は太平記の比、位争の御門の御末なり、何様天下お一度御望有て、御兄弟吉野の奥北山と申所に、一の宮は御座候、二の宮は河野の郷と申所に御座候、扠赤松衆天下第一の忠賞に預り、此家再興お致さんとの望にて、工夫して此吉野殿お討果し、神璽(○○)お取返し奉るべし、然らば次郎法師丸に御安堵あるべきかと、内々お以て訴訟申所に上意の御内証相協ひ、三条殿お以禁中へも申立、扠吉野殿〈◯尊秀王、忠義王、〉おねらひ申さん謀に、赤松牢人ども、身の置所なく、堪忍もつヾかぬ事なれば、吉野殿お頼申由にて、細々吉野へ参り、何とぞ赤松牢人一味いたし、都お攻落し、一度は都へ御供申さむと色々申入候へば、御同心の義あり、扠大勢は御隔心なれば、夜討に入べき人数おすぐり、間島中村弾正、同太郎四郎以下、大和国宇智郡まで出勢し、康正二年丙子十二月廿日、吉野へまいり隙おうかヾひける、終に次の年長禄元年丁丑十二月二日の夜、子の刻大雪ふり、御油断の時刻お伺ひ、両宮へ二手に成、一度に攻入、北山にて一の宮〈◯尊秀王〉おば丹生屋帯刀左衛門、同弟四郎左衛門兄弟にて討申、御頸おば帯刀取申候、彼内裏の御たから神璽(○○)おも取りてのき申候、吉野十八郷の者起り、跡より追ひ懸候間、御頸お隠し置候へば、奇特なることにて血湧上り、其血にてあらはれ、兄弟ともに、伯母谷と申所にて致討死候、其時神爾おも取かへされ候、扠又二の宮〈◯忠義王〉おも、同じ時分に打はたし申候、是は中村弾正御首給はり候へども、是も郷民起り致討死候、両宮の間、大山ども隔て道遠く候といへども、赤松衆互に堅く申合、同じ時節に打果し申候、しかれども討手の兵共、大形道にてうたれ、たま〳〵残るもの、雪にうづもれ果て、神璽(○○)お取るべきやうなし、小寺藤兵衛入道大和衆越智と申者おたのみ、種々の謀おめぐらし、郷民おすかしとり、次の年長禄二年八月晦日、神璽(○○)お内裏へ備申候、