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塵袋

行幸の時具せらるヽ大刀契は何ていの物ぞ、大刀契と雲ふは、もの一が名には非ず、二の物也、大刀と契と各別なるお一に雲ひなしたり、大刀と雲ふは剣也、たち也、それに取て大刀と節刀とおなじ物と雲説あり、別の物と雲説あり、江帥〈◯大江匡房〉は大刀の外に、別に節刀があるべしと雲へり、大刀の中に霊剣二つあり、これお節刀と雲とも雲へり、其説まち〳〵也、契と雲は漁符也、長さ二寸余にして魚の形おつくれり、せなかのとほりお、たヾさまに二にわり合せて銘おかき、きざみめおつけて国々に頒ちつかはし、つはものにたびなどして、しるしにせらるヽ物也、かたかたづヽ別にわかち、指合せてみるにたがはねば、いつはりにあらずと知るべきしるし也、魚符の銘には、発兵符それがしの国とも、それがしのつかさとも書り、村上の御記には、節刀四十余柄としるされたるとかや、これにはおしふさねて、節刀と雲べき様に見えたるにこそ、天徳四年、内裏焼亡以後の御記也、同き十月、縫殿大允藤文記〈◯記日本紀略作紀此下恐脱記字〉には、大刀四十八柄、魚符七十四枚、剣おば内裏焼亡の後、温明殿より四十四柄、清涼殿より四柄もとめ出すとしるす、きりさきの剣、鯰尾の剣、いづれもあまたあり、ながき定二尺五寸には過ず、其外は或二尺四寸、二尺二寸等也、軍防令雲、大将出征皆授節刀、注雲、凡節者以旄牛尾為之、使者所擁也、今以刀剣代之、故曰節刀といへり、大刀中に霊剣二あり、百済国よりたてまつる所也、一おば三公戦闘剣と名く、又将軍剣とも、破敵剣とも雲、護身剣は疾病邪気お除く、剣の左には日形、南斗六星、朱雀の形、青竜の形お図す、右には月形、北斗七星、玄武形、白虎の形お図す、破敵剣には、左には三皇五帝形、南斗六星、青竜形、西王母が兵刃符お図す、右には北極五星、北斗七星、白虎形、老子破敵符お図す、又護身剣あり、かの銘に曰く、歳在庚申正月、百済所造三七練刀、南斗、北斗、左青竜、右白虎、前朱雀、後玄武、避深不祥、百福会就、年齢延長、万歳無極、此朝に節刀お賜はる事は、元明天皇和銅二年三月、陸奥越後両国にえびすありて野心あり、左大弁巨勢朝臣麻呂陸奥鎮東将軍として、民部大輔佐伯宿禰石湯おば征越後蝦夷将軍にさだめてき、此時節刀お賜はる、一条院御時、寛弘二年十一月十五日の内裏焼亡に、大刀契多く焼け損じにけり、堀川院御宇、寛治八年十月廿四日焼亡の時、霊剣焼け損じて護身剣は青竜わづかに残り、朱雀はおばかり残れり、破敵剣は、五星の中に二星残る、又王母が兵刃符わづかに残れり、天徳内裏焼亡にも、少々焼損じたりけるお、晴明うけたまはりて、みがヽせて修理したりけり、天徳四年十二月十二日、宜陽殿の作物所にて造らしむ、庁町の直廬にてとぎみがく、大臣陣に着雲々、行事参議朝成朝臣也、権右中弁国光朝臣、左近衛将監監臨す、左右物節(ものふし)各一人守護、鍛冶は内蔵属実行雲々、又応和元年七月五日、高雄山にて剣お造る、天文博士保憲、八月於神護寺、三皇五帝祭おつとむ、剣お造る祈禱と雲雲、備前国鍛冶白根安生(○○○○)剣お造り進ずる由旧記に見えたり新造せられけるにや、近くは安貞二年二月八日、ひつおさしかへて入らる、