[p.0191][p.0192][p.0193]
登極に二途あり、一は先帝の崩後お承け、一は前帝の禅譲お受く、並に之お践祚と雲ふ、而して前帝の禅譲お受け給ひしは、之お譲位の条に収め、此篇には主として、先帝の崩後お承け給ひしものお載せたり、又践祚に上代と後世との別あり、上代は践祚即ち即位にして、其別なかりしが、後世は践祚の後、更に即位の礼お行ひ給ふことヽなれり、故に上代に在ては、即位おも此篇に収めたり、
古来或は先帝の崩後、皇嗣の政お聴き給ふお践祚とするもあれど、此篇には始めて天皇と称したまひしお以て践祚と為し、天智天皇の、先帝の崩後六年お踰えて即位したまひし如きも、其前は皇太子なれば、之お践祚と為さず、光孝、平城、文徳、清和等の天皇皆是例なり、又神璽お受け給ふお以て直に践祚と為さず、清寧、推古、平城等の天皇は、当時未だ天皇と称したまはざればなり、蓋し践祚の後更に即位の礼お行ひ給ひしは、桓武天皇、淳和天皇等なれども、未だ践祚即位の名お以て之お分たず、其践祚即位の名お以て之お分ち、既に帝位に即き給ひし後に、更に即位の礼お行ひ、以て定例と為し給ひしは、是より後の事にて、醍醐、朱雀、村上の三帝は、受禅の後に前帝お尊びて太上天皇と為し、朱雀天皇は、先帝の崩後即位の前に、皇太子及び皇后お立て給ひたり、其既に帝位に居たまひしこと知るべし、是真に此書に雲ふ所の践祚にして、後世皆其跡お襲へり、
践祚の称は、前帝の禅お受け給ふと、先帝の崩後お承け給ふとお択ばざるなり、而して古に在りては受禅の践祚は其日直に之お行ひ、崩後お承くる践祚は、年月お経て之お行ひ給ふお例とせり、然れども其年月の長短は種々にして一様ならず、或は先帝崩後の明年践祚し給ひしあり、或は数年お間てヽ践祚し給ひしあり、又は先帝お葬るもなほ久しく践祚し給はざりしあり、但し未だ先帝お葬らずして践祚し給ひし例は、光孝天皇以前のみお取れり、後世に至りて崩後お承くる践祚はみな此の如くなればなり、而して彼の後鳥羽天皇、及び北朝の天皇の、神璽お受けずして践祚し給ひしが如きは、殊に異例にして、当時朝臣の往々異議お唱へし所なり、
凡そ皇太子の、先帝の崩後お承け、又は前帝の禅譲お受けて践祚し給へるは、古今の恒典なれども、時によりて必しも然らず、継体、欽明、崇峻、舒明等の天皇は、太子たらずして践祚し、後白河、後嵯峨、光明、後柏原、正親町、後西院等の天皇は、親王たりしのみにて践祚し、後堀河、後花園等の天皇は、親王たらず太子たらずして践祚し給へり、其他互に帝位お譲りて始て践祚し給ひしあり、仁徳、顕宗、孝徳、光孝等の天皇是なり、乱お討じて後践祚し給ひしあり、妥靖、履中、安康、雄略、武烈等の天皇是なり、蓋し此等種々の異例は、当時の事情已むお得ざるに出でしもの多く、彼の両統更立の如きは殊に然り、両統更立は、村上天皇の皇子冷泉、円融二帝の両流迭立の時に於て既に其跡あり、降て後深草、亀山二帝の両統、互に継承お争ひ給ふに及びては、権臣之に参与して更立の議お定め、終に南北両朝の変体お生ずるに至れり、
幼帝践祚し給へば必ず摂政お設く、清和、朱雀、一条、鳥羽、崇徳、近衛、六条、安徳、後小松、桃園等の天皇皆然らざるはなし、而して女帝の践祚に至りては、或は置き或は置かず、女帝の中にて、推古、皇極、持統等の天皇は、先帝の皇后にして践祚し、元明天皇は皇太子〈草壁皇子〉の妃にして践祚し、元正、孝謙、明正、後桜町等の天皇は、何れも皇女にて践祚し給へり、而して此等の女帝中、皇極天皇及び孝謙天皇の、譲位の後更に重祚し給ひしが如きは、異例の最甚しきものとす、而して重祚は、歴朝の中此二女帝に限れり、