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神皇正統記
後嵯峨
承久のみだれありし時、二歳にならせ給ひけり、通親大臣の四男、大納言通方、父の院〈◯土御門〉にも御傍親、贈皇后〈◯後嵯峨母源通子〉にも御ゆかりなりしかば、収養し申てかくしおき奉りき、十八の御年にや、大納言さへ世おはやくせしかば、いとヾ無頼になり給ひて、御祖母承明門院になんうつろひまし〳〵ける、二十二歳の御年、正月十日四条院俄に晏駕、皇胤もなし、連枝の御子もましまさず、順徳院ぞいまだ佐渡におはしましけるが、御子達もあまた都にとヾまり給ひし、入道摂政道家の大臣、彼御子の外家におはせしかば、此御流お天位につけ奉り、もとのまヽに世おしらんとおもはれけるにや、其おもむきお仰つかはしけれど、鎌倉の義時が子泰時はからひ申て此君おすえ奉りぬ、まことに天命なり、正理也、土御門院御兄にて、御心ばへもおだしく、孝行もふかく聞えさせ給ひしかば、天照大神の冥慮に代て、はからひ申けるもことわりなり、