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増鏡
三藤衣
その頃いとかずまへられ給はぬふる宮おはしけり、守貞親王とぞ聞えける、高倉院第三の御子なり、隠岐の法皇〈◯後鳥羽〉の御このかみなれば、おもふはやんごとなけれど、むかし後白川の法皇、安徳院の筑紫へおはしまして後に、見奉らせ給ひける御むまごの宮たちえりの時、泣給ひしによりて、位にもつかせ給はざりしかば、世の中ものうらめしきやうにてすぐし給ふ、〈◯中略〉つひに御ぐしおさへおろし給ひて、このよの御のぞみはたちはてぬるこヽちしてものし給へるに、このみだれ〈◯承久乱〉いできて、一院〈◯後鳥羽〉の御ぞうはみなさま〴〵にさすらへ給ひぬれば、おのづからちいさきなど残給へるも、世にさしはなたれてさりぬべき君もおはしまさぬにより、あづまよりのおきてにて、かの入道〈◯守貞〉の御子〈◯後堀河〉の十になり給ふお、承久三年七月九日にはかに位につけ奉る、