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椿葉記
此六月〈◯正長元年〉の頃より御なう猶おもらせまし〳〵て、まうけの君の御事、世にさま〴〵申程に、七月のはじめ、嵯峨にまします南方の小倉殿〈◯良恭親王〉と申、御逐電ときこゆ、御位ののぞみにて御謀反のくはだてあるよし、世の中騒ぎ申ほどに、七月十二日夜中ばかりに世尊寺宮内卿行豊朝臣伏見殿へはせまいり、三寳院准后の御使にて、室町殿〈◯足利義教〉より申さるヽ趣は、宮御方〈◯後花園〉明日京へなし申されよ、まづ東山若王子へ入申されて警固申さるべきなり、〈あか松左京大夫入道警固おほせつけらる〉御服などは勧修寺に仰付らる、御迎には管領参べしと申されしかば、宮中上下のひしめき夢うつヽともおぼえず、めでたさも、申もなほざりなるこヽちして、にはかの御いでたちかたの如くとりまかなひて、御迎へお待ほどに、十三日の夕方ほどに、管領の手の者ども四五百人参りぬ、やがて出御、御輿にて内々若王子へ渡御なりぬ、〈◯中略〉さて室町殿より関白二条お以て、事の子細お仙洞〈◯後小松〉へ申さるヽほどに、同十七日、仙洞へ入申さる、室町殿より御車番頭いよ〳〵参らせらる、綾小路前宰相、庭田三位御車の後にまいる、長資朝臣、隆富朝臣供奉す、管領父子まいる、御車の前後に数百人警固に参れば、道すがら見物の人も多くて、月はことさらすみ渡りて、御行末の嘉瑞も空にあらはれ侍る、めでたさも思ひよるきはならねば、おがみ奉る人もほめのヽしり申とぞ聞えし、かくて院の御所に渡らせ給ふ、さるほとに内裏は二十日崩御なりぬ、〈諡号称光院〉践祚の事今はひし〳〵と定りて、禁中は触穢なれば、三条前右府の亭お点じてめされて、新内裏になさる、俄に修理せられて、殿舎など造りそへらるヽとぞきこえし、同二十九日、新内裏へ渡御なる、院の御猶子の儀にて践祚あり、よろづ旧規にかはらず、御歳十歳にならせまします、めでたさも世の不思議なれば、天下の口遊にてぞ侍、大かたむかしも皇統の絶たるのち、両三代おへても又皇統おつがせ給ためしのみこそあれば、おなじくは我一流の絶たる跡おおこさせ給はヾ、いかに猶めでたさも色そはまし、さりながらそれはともかくもあれ、つたなき隠士の家より出させ給て、かたじけなくも天日嗣お受させ給事、天照大神正八幡大菩薩の神慮とは申ながら、ふしぎなる御果報にて渡らせ給へば、これもわたくしの幸運眉目にてあらずや、