[p.0282]
愚管抄

仁徳天皇は、応神うせおはしまして後、御在生の時太子にたち給宇治皇太子なり、それこそはすなはち即位せさせ給べかりけむに、仁徳はあにヽておはしましければにや、仁徳おくらいに即給へと申させ給けり、又仁徳は太子に立給たり、いかでかさる事さふらはむと、たがひに位につかんといふあらそひこそあることお、これは我はつかじ〳〵といふあらそひにて、三年までむなしく年おへければ、宇治の太子かくのみ論して国王おはしまさでとしふるお、民のためもなげきなり、われみづからしなんとの給ひてうせさせ給ひにけり、これお仁徳きこしめして、さわぎまどひてわたらせ給ひたりければ、三日になりけるがたちまちにいきかへりて、御物語ありて猶ついにうせ給ひにけり、そのヽち仁徳は位にはつきて、八十七年までおはしましけり、このしだいこそ心もことばもおよばね、人といふ物はみづからおわすれて他おしるお実のみちとは申也、この宇治の太子の御心ばへおあらはさむれうに、太子にたてまいらせられけるにやとこそ推知せられ侍れ、応神などの御あとのことはさだめてかヾみおぼしめしけん、日本国の正法にこそ侍めれ、