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梅松論

援に後嵯峨院、寛元年中に崩御の刻、遺勅に宣く、一の御子後深草院御即位有べし、おりいの後は、長講堂領百八十け所お御領として、御子孫永く在位の望おやめらるべし、次に二の御子亀山院御即位ありて、御治世は累代敢て断絶あるべからず、子細有に依てなりと御遺命あり、依之後深草院御治世、宝治元年より正元元年に至までなり、次に亀山院の御子、後宇多院御在位、建治元年より弘安十年にいたる迄也、後嵯峨院崩御以後三代は、御譲に任せて御治世相違なき所に、後深草の院の御子、伏見の院は、一の御子の御子孫なるに御即位有て、正応元年より永仁六年に至る、次に伏見院の御子持明院、〈◯後伏見〉正安元年より同三年に至る、此二代は関東のはからひよこしまなる沙汰なり、然間二の御子亀山院の御子孫、御鬱憤有に依て、又其理に任せて後宇多院の御子、後二条院御在位あり、乾元元年より徳治二年に至る、又此君非義有に依て、立かへり後伏見院の御弟、萩原新院〈◯花園〉御在位あり、延慶元年より文保二年に至る、亦御理運に帰す、後宇多院の二の御子、後醍醐院御在位あり、元応元年より元弘元年に至る、如此後嵯峨院の御遺勅相違して、御即位転変せし事、併関東の無道なる沙汰に及びしより、いかでか天命に背かざるべきと、遠慮ある人々の耳目お驚かさぬはなかりけり、抑一の御子〈◯後深草〉の御子、伏見院御在位の頃、関東へ潜に連々仰られていはく、亀山院の御子孫御在位連続あらば、御治世のいせいお以のゆえに、諸国の武家君お擁護し奉らば、関東遂にあやうからむものなり、其故は承久に後鳥羽院、隠岐国へ移し奉りし事安からぬ叡慮なりしお、彼院〈◯亀山〉深思召れて、やヽもすれば天気関東お討亡し、治平ならしめむ趣なれども、時節いまだ到来せざるに依て、今に到るまで安全ならず、一の御子後深草院の御子孫においては、天下のためにとて元より関東の安寧お思召候所なりと仰下されける程に、依之関東より君おうらみ奉る間、御在位の事においては、一の御子後深草院、二の御子亀山院の両御子孫、十年お限に、打替〳〵御治世あるべきよしはからひ申間、後醍醐院の御時、当今の勅使には吉田大納言定房卿、持明院〈◯後伏見〉の御使には日野中納言の二男の卿、京都鎌倉の往復再三におよぶ、勅使と院の御使と両人、関東において問答事多しといへども、定房卿申されけるは、既に後嵯峨院の御遺勅に任せて、一の御子後深草院の御子孫、長講堂領お以、今に御管領有うへは、二の御子亀山院の御子孫は、累代相違あるべからざる所に、関東の沙汰として、度々に及て転変更に其期お得ず、当御子孫御在位の煩常篇に絶ず篇お尽し申さるヽといへども、以同篇たる上は是非にあたはざるよし再三仰下さるヽによつて、二の御子の御子孫、後醍醐院御禅お受給ひて、元応元年より元弘元年に到る、御在位の間今においては、後嵯峨院の御遺勅治定之処に、元徳二年に持明院の御子〈◯光厳〉立坊の義なり、以の外の次第也、凡後醍醐院我神武の以往お聞に、凡下として天下の位お定奉る事おしらず、且は後嵯峨の院の明鏡なる遺勅おやぶり奉る事、天命いかむぞや、たやすく御在位十年お限に、打替〳〵あるべき規矩お定申さむや、しかれば持明院十年御在位の時は、御治世と雲、長講堂領と雲、御満足有べし、当御子孫空位の時はいづれの所領おもて有べきや、所詮持明院の御子孫すでに立坊の上は、彼御在位十年の間は、長講堂領お以十年、亀山院の御子孫に可被進よし、数け度道理お立て問答に及ぶといへども、是非なく持明院の御子、光厳院立坊の間、後醍醐院逆鱗にたへずして、元弘元年の秋八月廿四日、ひそかに禁裏お御出有て、山城国笠置山へ臨幸あり、