[p.0291][p.0292]
神皇正統記
亀山
此天皇お継体とおぼしめしおきてけるにや、后腹に皇子うまれ給ひしお、後嵯峨とりやしなひまして、いつしか太子に立給ひぬ、後深草〈其時新院と申き〉の御子もさきだちて生れ給ひしかども、ひきこされましにき、〈太子は後宇多にまします、御年二つ、深草の御子に伏見、御とし四歳になり給ひけり、〉後嵯峨かくれさせ給ひてのち、兄弟〈◯後深草、亀山、〉の御あはひにあらそはせたまふ事ありければ、関東より母儀大宮院〈◯後嵯峨后、後深草亀山母后、藤原吉子、〉にたづね申けるに、先院〈◯後嵯峨〉の御素意は、当今〈◯亀山〉にましますよしお仰つかはされければ、事さだまりて禁中にて政務せさせ給ふ、
◯按ずるに、五代帝王物語には、去程に十七日〈◯文永九年二月〉卯の時に、法皇〈◯後嵯峨〉つひに御事きれさせ給ふ、〈◯中略〉抑御治世上中御処分いかヾ御計有らんと、上も下もおぼつかなく侍しに、御遺誡とて御忌中の程は披露なし、五旬のヽち女院の御方にて御附属状おひらかれて、前左府筆お執て、御方々の御分かきわけて、奉行院司親朝朝臣お御使にて、内裏、新院へ参らせらる、されども御治世の事は関東計申べし、六勝寺鳥羽殿なども、御治世につくべきよし仰おかる、さて関東へは仁治に践祚ありし事は、泰時計申たりしかば、其例違ふべからず、彼例に任て内裏〈◯亀山〉新院〈◯後深草〉いづれにても計ひ申べしと、宸筆の勅書にてつかはさる、是も五旬の後つかはされしかば御返事いかヾ申さむずらんと、両御方の人々心お尽して思ひあはれたる有様、さこそ思食らめと、心ぐるしくおぼえ侍きとあり、