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神皇正統記
称徳
称徳天皇は孝謙の重祚也、庚戌の年正月一日、更に即位、同七日改元、太上天皇、〈◯称徳〉ひそかに藤原の武智丸の大臣の第二の子、押勝お幸したまひき、太師〈其時太政大臣おあらためて、太師と雲、〉正一位になる、〈◯中略〉天下の政しかしながら委任せられにけり、後に道鏡といふ法師〈弓削の氏の人也〉又寵幸ありしに、押勝いかりおなし、廃帝〈◯淳仁〉おすヽめ申して、上皇の宮おかたぶけんとせしに、事あらはれて誅にふしぬ、帝も淡路にうつされ給ふ、かくて上皇重祚あり、さきに出家せさせ給へりしかば、尼ながら位に居給ひけるにこそ、非常の極也けんかし、唐の則天皇后は、太宗の女御にて、才人といふ官に居給へりしかば、太宗かくれ給ひて、尼に成て感業寺といふ寺におはしけるお、高宗見たまひて、長髪せしめて皇后とす、いさめ申人おほかりしかど用られず、高宗崩じて中宗居たまひしおしりぞけ、叡宗お立られしおもまたしりぞけて、みづから帝位につき、国お大周とあらたむ、唐の名おうしなはんとおもひ給ひけるにや、中宗叡宗もわが生給ひしかども、捨て諸王とし、みづからのやから武氏のともがらおもちて、国おつたへしめんとさへしたまひき、其時にぞ法師も宦者もあまた寵せられて、世に謗らるヽためしおほくはんべりしか、この道鏡はじめは大臣に准じて〈日本准大臣のはじめにや〉大臣禅師といひしお太政大臣になし給ふ、それによりてつぎつぎ納言参議にも法師おまじへなされにき、道鏡世お心のまヽにしければ、あらそふ人のなかりしにや、大臣吉備の真備の公、右中弁藤原の百川などありき、されども力およばざりけるにこそ、