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源平盛衰記
三十二
四宮御位事
主上〈◯安徳〉は外家の悪徒に引れて、花の都お出て、西海の波の上に漂ひ御坐らん事お、法皇〈◯後白河〉御心苦く思召て、可奉還上由、平大納言時忠の許へ院宣お雖被下、平家是お奉惜、免進せざりければ、力及ばせ給はずして、さらば新帝お祝奉るべしとて、院の殿上にて公卿僉議あり、高倉院御子、先帝の外三所御坐、二宮〈◯後高倉院守貞〉おば儲君にとて、平家西国へ取下進けり、今は三四の間お可奉立歟、又故以仁の宮の御子おはします、十七にぞ成せ給ける、是は還俗の人にて御坐せども、懸る乱世には成人の主傍可宜還俗の事、天武之例の外に求むべからず、又昭宣公恒貞親王お奉迎られき、還俗の人憚あるべからずとぞ沙汰有ける、去共法皇は高倉院三四御子之間に思召定ければ、同八月五日、彼三四宮お奉迎取、先三宮の五歳に成せ給ふ是へと仰有ければ、大に面嫌まし〳〵てむづからせ給ければ、疾々とて速に返出しおはします、次に四宮お是へと申させ給へば、左右なく歩み寄らせ給、御膝の上に渡らせおはしまし、御なつかしげに竜顔お守り上進せ給けり、御年四歳にぞならせ給、法皇は御哀気に思召、御髪掻撫させ給、御涙ぐみて、此宮ぞ誠に朕が御孫也ける、すぞろならん者ならば、などてか懸る老法師おば懐く思ふべき、故院〈◯高倉〉の少くおはせし顔立に違ねば、隻今の様に思出らるヽぞや、懸る忘形見お留置れたりけるお、今まで不奉見ける事よとて、御涙お流させ給けり、浄土寺の二位殿、其時は丹後殿の局とぞ申ける、御前に候し給けるが、袖お絞りて被申けるは、兎角の御沙汰に及ばず、御位は此宮にこそと聞えさせ給ければ、法皇子細にやと仰有て、定まらせ給にけり、内々御占有けるにも、四宮は御子孫まで日本国の御主たるべしとぞ、神祇官并陰陽寮など占申けり、御母は七条修理大夫信隆卿の御娘にておはしけるが、建礼門院中宮の御時、忍つヽ内の御方へ被参ければ、皇子さしつヾき御坐しけるお、父修理大夫平家の鐘愛お憚、又中宮の御気色おも深く恐給けれ共、八条二位殿御乳人に付などせられけり、此宮おば法勝寺執行能円法印の奉養けるが、平家に付て西国へ落ける時、余に周章、北方おも不被具、宮おも京に奉忘たりけるお、法印人お返して、急ぎ宮具し進せて西国へ下給へと、北方へ宣ひたりければ、既に下らんとて、西八条なる所まで、忍具し進せて出給たりけるお、御乳人の妖に紀伊守範光と雲者あり、心賢く思けるは、主上は西海へ落下らせ給ぬ、法皇都に留らせ給たれば、御位おば定て四宮にぞ譲らせ給はんずらん、神祇官の御占も、未憑もしき事也とて、二位殿の宿所に参て尋申ければ、西国より御文有とて、忍て此御所おば出させ給ぬと答ける間、こは浅増き事也と思、nanき所此こ彼こ捜尋進せて、唯今君の御運は開けさせ給べし、物に狂はせ給て、角は出立給か、西国へ落下らせ給たらば、君も御位に立せ給ひ、御身も世におはせんずるにやとて、大に嗔腹立て、取留め進せたりけるに、翌日法皇より御尋ありて、御車御迎に参て角定らせ給けり、そも帝運の可然事と申ながら、範光はゆヽしき奉公の者也とぞ人申ける、