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天皇践祚の時は、必ず高御座に即きて、天日嗣しろしめすことお百司万民に告げ給ふ、之お即位と雲ふ、即位と践祚とはもと其別なし、天智天皇の先帝崩じて後、七年お歴て即位し給ひしは、其間皇太子にて摂政し給ひしものにて、践祚し給ひしにはあらず、持統天皇の如きも、また摂政三年にして、始めて践祚と共に即位の礼お行ひ給へり、其他文武、元正、聖武、孝謙、淳仁天皇等、何れも受禅の日直ちに即位ありて、践祚と即位とお別にせられたることなし、桓武天皇天応元年四月三日受禅即位あり、同十五日に其式お行はれてより践祚と即位と、其日時お異にするの端お開き、後世に至りては、践祚の後、歳月お隔てヽ、即位の式お行はるヽこと普通の例となれり、
即位式お行はるヽ時は、予め陰陽寮に命じて其日時お勘へ申さしめ、上卿おして擬侍従以下の職員お選び定めしむ、又礼服御覧とて、当日天皇の著御せらるべき冠服お天覧に供し、或は即位の無事ならんことお、社寺に祈禱せしめらるヽ等のことあり、其他由奉幣とて、天皇建礼門、神祇官等に行幸あり、使王おして幣帛お奉じ、即位せんとする由お伊勢神宮に告げしめられ、又告陵使お発遣して、即位の由お山陵、及び功臣の墳墓等に告げしめらるヽ等の事あり、抑即位の儀式は、神武天皇以後、孝徳天皇、文武天皇等の朝お経て大に整頓し、清和天皇の貞観儀式に至りては、即位譲国の式共に、我国固有の儀式に唐制お折衷して盛観お呈せり、中世以降皇室衰へ、其儀漸く旧観お失ひしがども、大体に於ては古今毫も変じたることなし、」即位の殿はもと大極殿なりしお、此殿焼亡の時、陽成天皇は豊楽殿お用い給ひ、冷泉天皇は不予によりて紫宸殿にて即位し給ひ、大極殿再び焼亡せしかば、後三条天皇は太政官庁お用い給ひ、後鳥羽天皇以後は専ら官庁にて即位ありしお、後柏原天皇以後、再び紫宸殿のみお用い給ふことヽなれり、其調度は高御座お始め、日月幢、四神及び万歳旗、陣の鉾等にして、当日之お庭上に建つ、其用度は皇室の衰微と共に、国庫漸く闕乏せしかば、成功お以て之お補はしむること始まり、殊に足利氏以後は、天下擾乱、朝廷益衰頽し、僅に其礼お行はるヽのみ、織田豊臣二氏頗る皇室お尊奉し、徳川氏の時に至り海内治平、朝儀稍旧に復し、用途の闕乏も前日の如く甚しからず、蓋し古は即位の時必ず叙位儀あり、又大赦お行ひ、老お恤み、貧お賑し、及び租調雑徭お免ぜらるヽ等、国用極めて豊かなりしお、後世は却りて進献と雲ふこと起り、殊に徳川氏に至りては、将軍お初め天下の諸侯にも、各其分に応じて参賀進献の礼お執らしめしが如きは、大に用途の助けとなりしものヽ如し、
又後円融天皇の如きは、或事情の為に、後柏原、後奈良、正親町等の天皇は、用途不足の為に、践祚後久しく即位の礼お行ひ給はざりしなり、又神器なくして即位し給ひしは、後鳥羽天皇、及び北朝の天皇にして、即位の礼お行はずして皇位お去り給ひしは仲恭天皇なり、其他即位以前前帝に太上天皇の尊号お上らるヽは例なれども、即位以前皇嗣お立てらるヽは普通の例にあらず、淳和、白河、後小松等の天皇は、何れも即位以前皇嗣お立て給ひたり、