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加越闘諍記
明応九年十月廿五日、皇太子〈◯後柏原〉践祚あり、然りといへども、京都猶以乱れ、細川大心院生害して後、弥々諸国に合戦止むひまなく、公方の御動座数に及ぶ、依之公家武家力衰へ、御即位あるべき様もなく、御践祚ばかりにて年月お過させ玉ふ、されば援に三条西殿実隆公如何にもして御即位お成し奉らんと武家お頼み給、並其比僧の中の大福者なれば、山科本願寺へ被仰下ければ、本願寺諸檀那お勧め、壱万貫の金子おさヽげ奉る、叡感の余りに、行成卿の三十六番の家の集お自筆にかヽれし歌書お本願寺に下し賜はる、其の上永代子々孫々准門跡に補任せられける、奇代の朝恩なり、去程に御即位有べきと其用意ありければ、京童ども実隆の門の扉に、
やせくげのむぎ飯だにも食かねて即位だてこそ無用なりけれ、実隆公是お見て、其脇に、
誰が言ひし麦飯そくひにならぬとは命おだにもつげば続るヽ、角て永正十七年三月廿一日、終に御即位有ければ、又実隆公の門に、
くるヽ迄おしねやしたる御即位は世々の継目おたやさじが為