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籾井家日記

八上氷上御先祖事
永禄年中に、忝も人王百七代の帝、正親町の院と申奉る御即位あそばされ候節、日本乱世の時なれば、悠基四基の御領お奉る者もなく、御規式も執行はるべきやうなし、関白殿も涙お流し玉ひて、延々の沙汰に及びありけるお、氷上御館殿〈◯波多野左衛門大夫宗高〉聞召され、此規式お執行ひ進上あるべきと思召、毛利元就公へも申通じられければ、元就公は道お行ふ人なれば、御猶至極と是亦存ぜられ申こされければ、近年天子の御作法万事すたり申条、なるほど礼義正しく王威も益候やうに、古例おも考へ取行はれ候やうに、関白殿御相談あられ、然るべく候とて大分の金銀お献上致され候、宗高公思召には、今乱世にて王威もおとろへさせ玉へば、急道お御正し一天下へひヾかせ玉ふこと、且は弓矢の冥加にて候とて、広幡殿と御内談あられ、関白殿へ一々申させ玉へば、関白殿も感涙に袖お御ぬらしなされ、叡慮更にあさからず、御心まヽに御規式お取行はる、御殿までお改め造り進ぜられ、御作法目お驚するばかりなり、則丹波より米穀黄金白銀絹布土産大分の御物入なり、公家衆女中までも引出物進ぜらる、警固の奉行には、荒木兵部大輔氏好、荒木山城守氏綱、江田兵庫頭行範、大館左近氏忠、赤井悪左衛門尉景遠これお勤め申候、其外七頭七組衆も代り〳〵に上洛して勤められ候、御即位の節は、屋形秀治公も氷上御館殿も御上洛なされ候、御人数一万二千人と申候、行列の次第、御作法正しく結構なる体に候ゆへ、洛中近国の見物は申に及ばず、遠国よりも忍の者出て記し留め申由に候、則参内お遂られ候処に、叡感斜めならず思召候、其時も様々の内裏へ献上の品々あり、御門よりも御剣、并に御詠歌の御短尺まで銘々拝領あられ、禁中にての御威勢中々申も愚に御座候、其時御屋形へも氷上殿へも御官位仰付られ、御両人ともに正四位侍従に昇進あられ、屋形の御弟波多野遠江守秀尚公と、氷上殿の御嫡波多野主殿頭宗貞公と、御両人は従四位に昇進あられ、屋形の次の御弟二階堂伊豆守秀香公は従五位に仰付られ候、其上に秀治公、宗高公へ桐の御紋お下され、則両家へ桐の御旗お頂戴なされ候、後まで屋形にも氷上殿も天賜の御旗とて御進め候は是なり、又元就公へも菊桐の両紋お下さる、猶官位昇進あられ叡慮斜ならず、是は当家の親方分なれば一入の御賞玩あさからず、今度の御働き日本は申に及ばず、大国までも其かくれなく、末代の後記に留ることなれば、屋形氷上殿の御手柄と雲、元就公の威光と雲、遠国の大将衆も羨しく思はれ、名お末代までも御上げなされ候、此後は屋形氷上殿よりは、万事御内奏ありて、叡慮あさからず思召候、後は当国旗頭衆にも官位下され候衆も多候、かやうの次第に宗高公御武略の名誉四方にはびこり、御手合の首尾も調り、すはや弓矢の絃お切て放し玉はヾ、向ふ処に敵なく、丹波衆の代々の武辺の意知に、近年弓矢お御ねり込なされ一様の風儀なれば、誰か鉾先にあたるものあらんやと、国中勇おなし申候雲々、