[p.0426][p.0427]
今古独語
抑開山聖人三百年忌、永禄四辛酉年にあたり給ふ、これによりて諸国御門弟御一門一家、その外坊主衆参向、たヾし三月の比ひきあげられ、勤修あるべきよし年内よりその沙汰これあり、かねて今師上人禁裏より門跡になし申さる、勅使万里小路前内府秀房公也、されば下間一党も坊官の准拠たるべしとて、大蔵卿御使節として内裏へ出仕の義、前々にかはれりしかば、左衛門大夫頼資も落髪ありて、上野頼充と号し、即法橋に任ず、丹後頼総も法眼に叙せり、それに付て顕証寺、願証寺、光善寺、院家の望み天気お経られ、門跡へ申入られ、永禄第三の比、素絹紫袈裟にて参内あり、それよりのち、教行寺、順興寺、慈敬寺、勝興寺、常楽寺、院家にさだまりぬ、しかれば御仏事の儀式、当分御門跡になし申され候と申、院家各々出頭、ことさら御年忌迦逅の御事なれば、他宗の衆参詣もあるべし、先聖道の衣裳しかるべきよしにて、法眼衲袈裟用意あり、
◯按ずるに、本願寺の即位料お献じたることは、後柏原天皇の大永元年に見えたれども、其門跡となりしは、正親町天皇の永禄年間お正しとするが如し、