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毛利家記
一今年〈◯天正十四年〉後陽成院御即位に付、秀吉公御上洛也、御諚に雖為証人不苦ことなれば、宮松丸上京して、御即位可致見物の由依仰上らせ給ふ、〈◯中略〉偖御即位の日、諸警固の衆へ秀吉公御諚に、中国よりの証人に御即位御おがませ被成候間、供の者に至迄一人も無障通し可申と被仰出しに依、下々迄禁中無残見物仕し、宮松丸殿秀吉公の御座所の近辺おとおらせ給ひしお、御覧じ付られ招せられしに依て御傍へ参り給へば、御手お取せられ、今朝より方々見物してくたびれ可申ぞと被仰、菊亭右大臣殿お呼せられ、此子に何にても会釈有て給り候へと、長橋の御局へ被仰入候へと仰ければ、菊亭殿御手お引せられ、御簾中へ御参り候へば、如何候てか天子御覧じ付させられ、長橋の御局へいかなる者ぞと勅問有しに、長橋殿よくしろしめしたるに依て、悉く奏達せさせ給ひければ、天子聞召し、偖は奇特なること也、毛利陸奥守元就、後奈良院の御即位調進せしぞかし、今日即位の砌参り相ふ、王道の佳瑞なれば、可被成御覧との勅定にて、御前近く被召出し希代の儀也と諸人申し合しとかや、偖長橋の御局御手お引させられ御出有て、御会釈さま〴〵なりし、秀吉公より又菊亭殿お以、幼少の者にて窮窟に可存候、御差出し候やうにと被仰しに依て、菊亭殿御同道にて出させられ、秀吉公の御前へ参り候へば、緩々と方々見物候へと御諚にて、諸大夫の人お付させられ、此方の御供衆へ引付られ候て、御即位相済候迄見物まし〳〵御宿へ帰らせ給、
◯按ずるに、宮松丸は毛利輝元の子にして、当時大坂に証人たりしものなり、