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椿葉記
その頃将軍〈◯足利義満〉は幼少にて、執事細川武蔵守頼之朝臣、天下の事はとりさた申ほどに、内裏にては、近き臣ども内談ありて、御譲国のさたやう〳〵風聞せしかば、伏見殿〈◯崇光〉より栄仁親王〈◯崇光皇子〉践祚の事、後深草院以来、正嫡にてまします御理運の次第お、日野中納言教光卿お勅使にて武家へ仰せらる、御返事は聖断たるべきよしお申す、承久以来は武家よりはからひ申す世になりぬれば、いかにも申沙汰せらるべき由お再三仰せらる、御理運勿論とはぞんじ申ながら、内裏〈◯後光厳〉より別して頼之朝臣お頼み仰せらるヽによりて、所詮いづかたの御事おもいろひ申まじき由お申て、つひに一の御子〈◯後円融〉に御譲位ありぬ、武家ひとへに贔負申うへは、力およばざる次第なり、さるほどに本院〈◯崇光〉新院〈◯後光厳〉たちまち御中あしくなりて、近習の臣下もこヽろごヽろに奉公ひきわかる、兄弟の御中にも御位のあらそひは、昔よりあることなれば、ちからなき事なり、