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愚管抄

さてうへ〳〵の御中あしきことは、崇徳院の位におはしましけるに、鳥羽院は長実中納言が女お、ことに最愛におぼしめして、はじめには三位せさせておはしましけるおん腹に、おのこみこ生れさせ給へるお東宮にたてヽ、崇徳の后には、法性寺殿〈◯藤原忠通〉のむすめまいられたる、皇嘉門院〈◯藤原聖子〉なり、その御子のよしにて、外祖の儀にて、よく〳〵さたしまいらせよと仰られければ、ことに心に入て、誠の外祖のほしさに、さたしまいらせけるに、その定にて譲位候べしと申されければ、崇徳院はさるべしとて、永治元年十二月に、御譲位ありける、保延五年八月に、東宮には立せ給にけり、其宣命に、皇太子ともあらんずらんと思召けるお、皇太弟とかヽせられける時には、いかにとまた崇徳院の御意趣にこもりけり、