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太平記
二十一
先帝崩御事
南朝年号延元三年八月九日より、吉野主上〈◯後醍醐〉御不予の御事有けるが、次第に重らせ給ふ、〈◯中略〉玉体日々に消えて、晏駕の期遠からじと見え給ければ、大塔忠雲僧正御枕に近付奉て、涙お押へて申されけるは、〈◯中略〉万歳の後の御事、万叡慮に懸り候はん事おば悉く仰置れ候て、後生善所の望おのみ叡心に懸られ候べしと申されたりければ、主上苦しげなる御息お吐せ給ひて、〈◯中略〉隻生々世々の妄念共なるべきは、朝敵お悉亡して、四海お令泰平と思計なり、朕則早世の後は、第七〈◯七恐八誤〉の宮お天子の位に即奉て、賢士忠臣事お謀り、義貞義助が忠功お賞して、子孫不義の行なくば、股肱の臣として天下お鎮むべし、思之故に、玉骨は縦南山の苔に埋もるとも、魂魄は常に北闕の天お望んと思ふ、若命お背き義お軽ぜば、君も継体の君に非ず、臣も忠烈の臣に非じと、委細に綸言お残されて、左の御手に法華経の五の巻お持せ給ひ、右の御手には御剣お按じて、八月十六日の丑の刻に遂に崩御成にけり、