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梅松論

援に後嵯峨院、寛元年中に崩御の刻、遺勅に宣く、一の御子、後深草院御即位あるべし、おりいの後は、長講堂領百八十け所お御領として、御子孫永く在位の望おやめらるべし、次に二の御子、亀山院御即位ありて、御治世は累代敢て断絶あるべからず、子細有に依てなりと御遺命あり、依之後深草院御治世、寳治元年より正元元年に至までなり、