[p.0561][p.0562][p.0563][p.0564]
弓削物語
京都御物好にて従関東御不審并院中密々神君様御像お被為祀之事
飢歳には糟糠お貴み、豊年には稲粱お賤むとかや、保平〈◯保元、平治、〉の頃より、王威日に陵夷して古に異なり、就中元弘に富士山崩れてより、皇統二つと成、又加ふるに応文〈◯応仁、文明、〉の大乱お経て、文武其柄お失ふと雖、皇統幸に存し、織田公お経て豊臣公に至りて、皇統お尊み玉ふと雖、尚未足しに、大神君〈◯徳川家康〉世に出給ひ、誠に上は宸極お安じ、下は草木お撫給ふ、御神徳申も中々恐あることなり、なほ御三世に至て、俊傑の徳お顕し、礼楽の典お盛にし玉ふは、大猶院殿家光公也、御連枝は既に后位〈◯徳川秀忠女後水尾后和子〉に昇給へる御盛華、恐悦の御事のみ也、然るに一頃如何の叡慮にや、頻に鍛冶お召れ、尼近の人々も弓馬刀剣お習ひ、或武家姿の御人々もあり、此物好世中流説囂ければ、関東より不審り玉ひて、尼近の女中おば、関東へ召し下され、御城中にて御局〈◯大納言局〉申されけるは、京都如何の思召にや、世上の取沙汰さま〴〵也、悉く御聞被遊度御私おば召れ候也、世上の噂のみならんかし、よもや御間柄と申、左様の御事は被為在まじき也、世の疑お晴さん為なればと申されければ、答曰、いやとよ京都の御気色あしく候、されども御まへ如きの京都御前遠き人には申は恐多し、御直とならば申上べくとあれば、御内々の所にて、御対面ありて、御尋に答申上らるヽやうは、百敷や古き軒ばの御ことヾもお、今日の御不自由、御賄の不行届に、朝夕の御物も思召に協はず、且は延喜天暦の御政に遊し度、一日も叡慮のなごみなし、近々に武官の人お遣はされ、御政事御取返しに相成筈也と申上らるれば、ほろ〳〵と御落涙被遊、さてこそ京都の御様子、傍以恐入たる次第也、御賄等の不行届は皆某が罪也、しかれども昔室町家の末より、天下大に乱れ、君臣ともに安堵せず、神社仏閣も多くは廃し、万民塗炭に陥ること数年に及べり、援に織田羽柴両家誠忠お尽され、やヽ上下の差別お立、各以安からしむと雖、乱離いまだ絶ず、国々は皆各の私物と心得、兎角上お恐れず、逆威お振ひ民力お苦しむる輩あり、かヽりし所我祖父に候家康、永禄九年十二月、従五位下三河守に任じてより、後段々朝恩おうけ、遂に任槐の極望に達し、剰へ勅おうけて理世安民の将職お奉ず、誠に万々年お尽ても、報じ奉るべき日なし、家康浅官の初より、心密に願所は、上は宸襟お安じ、下は万民お救はんとの所存なりけるに、不思議に今日某が身に及で、職お継ぐこと偏に神明仏陀の助る所也、抑祖父并父に候秀忠、ともに古来の悪政お除き、三教の信誠おこらし、身謙り徳行はるヽによりて、今天下安穏にして、牛馬耕耨にあり、是併京都の御徳とは雖、家康よく治たりと思召べき也、然に今某が身にあたりて、叡慮の御異変によりて官軍お向けらるれば、何ぞ、朝敵とならんや、普天の下、率土の浜、皆臣民たれば、某も朝使に対し、首さしのべて討るヽまでのこと也、されども人皆其主お主として、朝廷の尊きことおしらざれば、如何様の逆人有まじとも雲はれず、其上当家御誅罰の後、如何様なる逆臣出来りて、朝廷お軽じ、国威お危ぶめんも計がたし、今日我家の亡んことは露塵も惜ねども、忝も天照皇大神八幡大菩薩の御正統、尚行すえ億々万年も御長久にて、祖父誠忠お尽されし勲功、子々孫々朝廷お安じ、悪徒お退け、治国安民の所存も消て家お亡さんこと、深き御子細も有べけれども、余に御情なき叡慮ならずや、尚某は当家の亡びて後、朝廷お守護する人いかヾあらんと、世の成行末お恐れ申計なり、さて亦武士の輩下民まで、再兵刃の苦おうけんことの不便さよと、又又御涙止させ玉はず、女中も打しほれ落涙し、け程なる御信実なる思召やな、京都お御大切に思召し、下々迄御不便がることの深さよ、左様に思召ならば、なぜに御満足がるやうに御計なきやと申上ければ、仰に、叡慮万一にも祖父の功お思召しあらせられよ、古歌にながらへばと雲へる、下万民お憐ませ玉ひ、彼漢の董卓といへる逆臣亡びて、曹操孫権等出しことお思召て、此度の逆鱗お止めさせ玉はヾ、朝廷の御長久、当家猶万民の安堵、千秋万歳天恩お仰ん、且は士民の倒懸お免んことの娯しさよと仰ければ、私は久く御側に在者なれば、他人の申上と違ひ御諌聞しめさん、作去今迄の通にては聞召さじ、私が承り候京都の御入用は、此印形お以申上んこと御承知遊すや、仰に、左様の筋にて京都のこと治るならば、兎も角もすべき也、元来国中朝廷の御物也、雖然保平に乱れて、世の中騒しく成行ば、鎌倉殿〈◯頼朝〉お総追捕使に補せられ、国中の成敗お執させ玉ひ、地頭職お下され、国々に地頭お置きてより、爾来政事地面共に永く武家に属せり、これと申も公家方の諸臣、唯々日夜優美のことのみ心お尽し、弓馬の武官も、音楽の芸者に任せられしより、時々悪党ありても、誰か分捕する人もなく、国司も後には、代官目代などヽてあらぬものなれば、中々国の治る日なし、況や清盛が悪逆、北条の有様、後醍醐帝に至て大乱となり、室町殿の守護ありし皇統、誠に宗廟の御加護にて、今に至り栄え玉ふ也、旧記御覧にて御存知の御事也、且室町の末の有様に、祖父が尊敬はまさるべし、況や今柔弱優美の侍臣など、万一の御用に立べきや、当家は大小名お随へ、武備お糺し、和漢の善従お撰み、まさか朝廷に逆する人か、或異国より襲はんずる時に、本朝の光お揚げ、宗廟お安じ、公家おして危きことお知しめざる、是誠忠に非や、とかく今の善事お以、昔の悪事に引あてヽ思召さば、左のみ当家の致方も、宸襟の不安こともあるまじ、夫天子は万民の父母たり、万物の其所お安ずる様にと思召さば、御憤りも止ぬべしと、御詞お尽しの玉へば、さても御猶の御こと也、とく〳〵上京御諌申上ん、就夫先刻の御書物お下されよと、即御名印ある御書付お賜はり、且先刻より仰のある中、心覚に書付しお、京都に持参ありて申上らるヽは、関東の御器量抜群の上、一分の私なく、唯天下万民のみの心入、眼中の光り、心気の強く落付くやう、親まさりの人也、中々並々の人の相手に非ず、又此に候書留お御覧被遊よと差上らる、得と御覧ありて、朕が思召すよりは、殊に徳川はよき心入也、かヽる上は東西弥むつまじくぞ、何もよく〳〵計ひ奉れと、其由関東へ聞えければ、何事なく皆内々にて治り、御互に御感心の御ことヽかや、かくて門院御所〈◯東福門院〉の仰に、関東の忠信はさら也、されども一旦御物好にて不審の所に、事は治れども、此上真実安堵ある様にと、仙院〈◯後水尾〉仰に、連枝こそよく心底おしらるべし、御答に、家光は殊更祖父の徳お慕ふこと若き時より人に超たり、祖父既に神位お得られしことなれば、何とぞ密かに御庭に権現の御祀あらば、其勲功お賞し玉ふ叡慮お深感申されんと、げにもと思食勅作ありて、尊像お密に御祀ありけり、此後に関東よりの男女の人々に、門院かく御祭の叡慮厚きこと御噂被為在しかば、御両地誠に寛仁大度、永久の御吉兆、御和熟なるこそ恐悦なれ、
右は文言御縁起お以、理長、慶安中に直諌の時、書付て差上られしの写也、
◯按ずるに、後水尾天皇、徳川氏に快からずして、突然明正天皇に御譲位あり、爾来公武の間常に円滑ならざりしお、大納言局、其間に往来停調する所あり、是によりて家光屡上洛して仙洞に覲し、なほ叡志お迎へて、明正天皇の御譲位お促したるものなり、