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大猶院殿御実記
十四
寛永六年十一月八日、京にて主上〈◯後水尾〉にはかに御位お女一宮〈◯明正〉にゆづらせたまふ、近侍の公卿といへども、今日まで此事おしるものなし、中宮〈◯後水尾后徳川和子〉はわきてしろしめさヾりしに、夜に入て主上わたらせ給ひ、かくと告させたまへば、驚き思召事斜ならず、急脚お関東にたてられ、天野豊前守長信おもにはかにつかはされ、大御所〈◯徳川秀忠〉へも御手書もて仰進らせられ、こよひより中宮御所はふかくとざし、婦女出入お禁じ、厳につヽしませ給ふとぞ、関東にてもやがて酒井雅楽頭忠世、土井大炊頭利勝、及伊丹播磨守康勝お上京せしめ、丹後郡代五味金右衛門豊直とはかり、御譲位の事お沙汰せしめ、豊直はこれまで板倉周防守重宗があづかりし仙洞御料、洛中并西国辺にて、公卿より収公ありし采邑宅地の事お沙汰せしめらる、よて別に御判物并月俸二十口たまふ、 九日、中宮お推て皇太后宮とし、東福門院と称し奉る、 十三日、天野豊前守長信参著し、御譲位の事お土井大炊頭利勝まで聞え上しに、両御所〈◯秀忠、家光、〉聞召、御けしきよろしからず、長信は十二月五日迄とヾめられ、御返詞の御沙汰なし、十二月廿三日、中宮附天野豊前守正信、はじめて御前にめし出され、中宮への御返書おさづけ給ふ、