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嘉永明治年間録
十一
文久二年十二月廿二日、江戸三番町に捨札あり、其文に曰、確次郎、此もの儀先年逆賊安藤対馬守と同腹致し、兼々御国体は弁へながら、前田健助両人にて、恐れ多くも無謂く旧記お取調候段、大逆の至り、依之昨夜三番町に於て天罰お加る者なり、
◯按ずるに、当時の外国奉行堀利熙が老中安藤信睦に与へたる書なりとて世に伝ふるものに、米国都督米理努理留微造貴邸、専論我政務、閣下〈◯老中安藤信睦〉共被同餐、尊之如師父、遂与刑典数部、是可怪一也、閣下与渠結伯仲之義、渠贈衣帛珠玉巨万、閣下酬以慶長正保金一万鎰、是可怪二也、渠酔倒之際、挑閣下侍婢、閣下許而与之、是可怪三也、渠固請築館于殿山、閣下遂許之、是可怪四也、此四者辱国体大者、而有甚於此者、渠聞朝廷固持異議、論廃帝之事、閣下慫慂、使国学者探旧典、など見えたれども、此書の後人の偽作なることは、世既に定論あり、尊攘紀事補遺にも、清川八郎為詭言、劫中山忠愛曰、如聞幕吏謀逼皇上〈◯孝明〉譲位、不及今決事、則無復及也、と見えたる如く当時の浪士、為めにする所ありて故らに斯る詭言お放ち、甲唱へ乙和して、遂に世に流布するに至りしものなり、されば確次郎の害せられしも、此浮言お信ずる輩の所為か、然らずば私怨お挟む徒の、強て斯る罪名お付せしものなるべし、