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行幸は、いでまし、又みゆきと訓む、至尊の皇居お出でヽ、他所に臨御し給ふお雲ふ、或は単に幸とも書き、又御幸臨幸とも書く類みな同じ、其経歴し給ふところ、一所に止らざるものは、巡幸と書き、めぐりいでますと訓む、其法式、上古はいかなりけん知ることお得ず、大宝年中に、兵衛衛士、路次お按撿し、行人の炉簿お横截し、若くは官人の外より来り、隊仗に入るお禁ずる等の制お設け、延喜式に至りて、所司日時お択び、造行宮使、装束司、前後次第司お任じ、供奉及び留守の官お命じ、沿道の社寺に奉幣誦経し、国司郡司に禄お賜ひ、窮民若くは老年者、又従駕の官人に物お賜ふ等の制お定む、後世其儀変更なきにあらざれども、概ね旧制お斟酌せるものヽ如し、而して古今典籍の記するところ、京中行幸、京外行幸、遊覧行幸、遊猟行幸、観風行幸、温泉行幸、方違行幸、離宮行幸、院宮行幸、其外、行幸始、朝覲行幸等、種々の名目あり、今類お分て略記し、行幸に関する官司及び調度の類おも列記し、朝覲行幸は、別に其条お設けて附録す、但社寺行幸は神祇部、釈教部に、謁陵行幸は山陵篇に譲りて記載せざれども、文久三年、賀茂、石清水行幸は、二百年来の廃典お再興したまひしものなれば、特に此に収めたり、