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さかゆく花

せいい大将軍一ほんゆうばつか、〈◯足利義満〉久しく四いおちんぶして、とこしなへにばんみむのあむぜんおいたす、〈◯中略〉らくやうじやうの北、一のせう地あり、ちかごろの所おしんらくせらる、ばんみむちからおつひやさずして、ふじちになれること、かのれいせうにことならず、〈◯中略〉えいとくぐわん年三月十一日ぎやうかうあり、〈◯後円融〉おほよそのぎは御かたたがひのごとし、たヾしはくちうたるうへ、右大将いぎおとヽのへてぐぶせらるヽによりて、くわんはくいげのしよきやう、おほくそめしやうぞくおちやくせり、だい〳〵しつへいのていなどのぎやうかうにも、せんきかくのごとし、たう日みのときばかりに、しよきやうちやうのざにさんちやくす、右大将めしおほせの事おぶぎやうせらる、そのぎつねのごとし、ひつじの時ばかりに、しゆつ御あり、〈◯中略〉御みちは東のとういんお南ぎやう、中御かどお西ぎやう、むろまちお北ぎやう、一条お東ぎやう、いまで河お北ぎやう、北かうぢお西ぎやう、むろまちお北ぎやうなり、御みちのあひだけんぶつのともがら垣のごとし、あやしのやまがつ、おさめみかはやうのものまでも、くにぐによりわざとのぼりてみたてまつる、およそいちじんいで給ふ事たやすからず、千くわん百くわんおとヾのへらる、たま〳〵よろづの民もれうがむおはいす、これおほきなるさいはいなり、このゆえに行幸と申とかや、むろまちのていのよつあしのとに、しばらくおさへらる、神ぎくわんのおほぬさおたてまつる、さうの大将門おいりてせんかうせらる、ちうもむのとにて、大将次将みなたちかはる、此あひだがく屋にらんじやうおはつして、がく人れうとうげきしゆの舟にのりて、さしよせてがくおそうす、いとおもしろし、御輿南かいによる程、内侍二人もとより御すのきはにさぶらふ、中納言中将けんじのやくおつとむ、御こしよりおりさせ給て、しばしすのほかにたヽせ給、関白御きよおたヽみおきてしりぞきこうす、御こししりぞきぬれば、ひで長の朝臣すヽみてすヾの奏あり、夜に入ぬればおの〳〵名謁あり、中将あきひでの朝臣、大将にむかひてこれおとふ、そのヽちれんちうにいらせ給はん、その御しやうぞくみなせんれいおぞんぜらるヽ事にてあれば、こまやかにしるすにおよばず、〈◯中略〉同十二日、けふはまひ御らんなり、ひんがしのかヽりむきの方にて此事有、じゆごう〈◯義満〉直衣しろきおりものいだしぎぬうすあさぎの奴袴おちやくせらる、いとめづらしきことにや、宇治殿、〈◯藤原頼通〉ちそく院殿〈◯藤原忠実〉など、たび〳〵らうごにちやくせられけるとかや、