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北山殿行幸記
行幸〈◯後小松〉は、応永十五年やよひの初の八日なり、〈◯中略〉行幸の御道の程滞りて、暮かかる程にならせつかせ給、〈◯中略〉さても此度の行幸には、かしこ所おばぐし申されず、都の外にはわたらせ給はぬ事にてあるとかや、さりながら若御逗留の日数も久しくなり侍らば、さのみ御留守におき申されん事もいかヾとおぼしたり、〈◯中略〉こよひは入御の後、うち〳〵一こん有て、色々の御割子どもおまいらせらる、 九日、けふは雨ふりて舞御覧ものびたれば、何事もなく、うちうち一こんまいりて、しめやかなる御あそびばかりなり、 十日、けふこそ空もはれたれども、舞御覧などのさたもなし、〈◯中略〉けふもうち〳〵御あそびどもありて、西東二所に御座しきおまうけられて、くさ〴〵の宝物、数おつくして奉り給、 十一日、けふは又雨ふりて何事もなければ、此宿にて春の物とながめくらしたるばかりなり、歌の御会あるべしと兼てはさた有しかども、夫もけふはのびて、うち〳〵御連歌あり、 十二日、雨猶晴やらず、けふも隻何となき御あそびばかりなり、〈◯中略〉やう〳〵空も晴ゆくまヽに、花の夕ばえおもしろき程に、俄に北山院〈◯足利義満妻藤原康子〉へ行幸あり、かねてもさたなかりし事なれば、ぐぶの人々おももよほされず、御道の程も近ければ、えう輿など迄もなくて、筵道お敷て、四足の門より南のいしばしお下らせおはしまして、南の御所になる、〈◯中略〉御あるし〈◯足利義満〉もやがて御ともに参らせ給、〈◯中略〉夜に入て又崇賢門院〈◯後円融母后藤原仲子〉へも行幸あり、此御所よりさしつヾきやがて南なれば、これも筵道にてなる、〈◯中略〉げにかやうに御むまご御門のみゆきお、まさしく見奉らせ給ふ事は、近き代には大宮女院〈◯後嵯峨后藤原吉子〉などの外は、いたくためしもあり難くこそ、 十三日、けふは又あしき日とてことなる事もなし、隻うちうちの一こんばかりなり、 十四日、あしたの空のけしきより、なごりなく曇らぬ日かげものどけくて、御階の桜もけふぞ猶さかりの色おそへたる、舞御覧の奉行頭中将宗量朝臣、兼てよりうけ給はりて、楽所のれうりなどせらる、辰の時に衆会の乱声あり、此舞御覧おこそ心もとなしと待つけたる事なれば、老たるも若きも我先にといそぎ参りて見奉る、 十五日、〈◯中略〉夜に入て崇賢門院へうち〳〵行幸なる、〈◯中略〉猿楽おもわざとせさせられて叡覧あれば、道の者どもこヽはとおのが能のあるかぎりおつくしたるも、げにことわりとおぼえてこよなき見物にてぞ有ける、 十六日、〈◯中略〉けふは何の御さた有とも聞えず、